第31話
日が明ければ……
夜の暗闇に包まれる道場の中で、貫那は独りごちていた。
(日が明ければ、ここを離れなければならない。この道場に別れを告げなくてはならない)
移住――引越しというほど軽々しくはなく、逃亡というほど惨めでもないと信じている。
兄と共に、兄のために移住する。長く受け継がれてきた道場から離れることは心苦しいが、仕方のないことだった。……様々な意味で、仕方がないと諦めざるを得ない。
しかしだからこそ、貫那は最後の時間に、この道場の空気を味わおうとしていた。決して忘れぬよう、身体に染み込ませるつもりで、中央に座する。
志保沢流活殺術道場。創始者がいかようにして、活殺に目覚めたのか。数代以上も前のことであるため、知る由もないが。
『真っ当に生きて、真っ当に死んでいけ』――以前に会った女殺し屋の言葉が思い出される。ひょっとすればこの道場が生まれたのも、そうした思いの末かもしれない。
もっとも、新天地ではもはや意味のないことではある。活殺術が必要となることはないだろう。そうした暮らしをしなければならないのだ。都市部の大病院近くへ移住するのは簡単ではなく、それを維持するためには全く別種の技能を身に付けなければならない。
貫那は大きく息を吸うと、細く長く吐き出した。暗闇の中、精神を研ぎ澄ませる。不要に違いない、活殺術の技、精神。しかしそれを忘却はしないよう、染み込ませるように。
――と。
そうして、意識を張り詰めていたおかげだろうか。貫那は暗闇の奥に気配が現れたのを、瞬間的に察知した。
音はない。宙に浮き、呼吸もしていないのかと思えてしまう。それほどまで静かに――
その人影は、こちらに突進してきていた。
「……!」
突き出されたのが拳だとわかったのは、横へ飛び退く直前のことだった。
道場の床板を転がって、即座に立ち上がる。構える間もなく、相手はすぐさま再び突進を仕掛けてきた。
槍は既に手の中にあった。徹底的に磨いた戦闘本能は、咄嗟にこそ最大の力を発揮すると言ってもいい。
だからこそ冷静に、相手を視認できたのかもしれない。暗闇の中でハッキリと顔を見ることは困難だったが、服装だけはわかる――暗闇に映える、白衣。
「はあッ!」
血液が沸騰する心地で、貫那は即座に攻撃へ転じた。
活殺術。そのうちの殺人術を全開にさせる。
リーチの差は歴然である。突進に合わせて突き出した槍に、相手は回避せざるを得なくなった。しかしバランスを崩しながら、すぐにまた向かってこようとする。
そこへ先んじて、横殴りの刃を放つ。相手は再び、今度は後方へ飛び退いた。
「来たか、殺し屋」
距離が空いたところで、声をかける。白衣を着た小柄な相手は、何も答えなかったが。
「このタイミングで現れたとなれば、やはり移住先にまでは追ってこられないということか。良い情報だ」
「…………」
「兄上のため、私はここで負けるわけにはいかない!」
吼える声を合図として、殺し屋が駆ける。
迎撃の槍に対して僅かに身体をずらして横を通り過ぎさせ、さらに駆ける。距離は四メートルほどはあっただろうが、それが一瞬のうちにゼロになる。
「懐に入ろうなどと!」
貫那は身体を引きながら、タイミングを見計らって柄を思い切り跳ね上げさせた。相手の手首を狙う、カウンターの一撃である。
柄だけでもナイフ以上の長さがある。拳とは歴然の、とまではいかないが、十分な差だった。貫那はリーチの優位を確信して――
しかし。激痛を感じたのは貫那の方だった。
「ぎぅっ!? 何を……」
何をされたのか。理解できないまま、次の瞬間には側頭部を蹴り付けられる。
「げは……っ!」
横倒しになる、貫那。頭が揺れ、ガンガンと脳が痛む。手首の激痛は一瞬ごとに握力を奪っていき、腕の一部のように扱い慣れた槍に、重量を感じるようになってしまう。
しかしそれでも、手放しはしなかった。眩暈のような視界でも、貫那はそれを無視して立ち上がり、再び槍を構える――いや。
彼女の望みは叶わなかった。構える前にまたしても横倒しにされる。また、何が起きたのか理解できない。頬に、鉄を打ち込まれたような痛みがあった。布を巻いた金属バットで殴られれば、こういった痛みになるのかもしれないと思える。
が、そうした思考すらも許されないのか。貫那は次の瞬間、横向きになった腹を思い切り蹴り上げられた。それも二度、三度……十数度ほどは繰り返される。
「ぁ、が……」
もはや意識はほとんどなくなっていた。胃の中のものを吐き出し、道場の床を汚しながら、呻くだけになってしまう。
彼女はそれでも槍を手に、辛うじて敵を見上げた。霞む視界。そこに映ったのは――
敵の手に、ふと赤く揺らめく光が灯り、それが床に落とされる光景だった。
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