第19話

 その建物の門は、当然だが外にある。広大な敷地をぐるりと囲む、長大なフェンスの中央に開かれた、さして大きいわけでもない門。

 そんな場所で話すのは躊躇われることではあったが――実際にはそれほど気にすることもないのだろう。周囲を見回したところで、誰ひとり見つけられない。建物の中には百を超える人間がいるはずだが、彼らが外へ出るのは帰宅時間だけだ。真上で太陽の輝く時間は、むしろ秘密裏の会話をするには最適だと言えた。

 とはいえ、それでも貫那は声を潜めた。波と潮風、そして港の喧騒に紛れるように。

「真籐総司……本当に、間違いはないのか? 同姓同名の殺し屋は存在しないのか?」

「今更、何を言っている?」

 問いかけられたのは、長身痩躯の男だった。

 三十から四十の間という年齢だろう。雪が降りたような髪をしているため、もっと年配に見える。妙に威圧感のある気配も、その一端を握っているかもしれない。

 黒いスーツの上に白衣を着込んでいる。肩には脳と工具を戯画化した、気味の悪い刺繍。

 そんな彼が、怪訝に眉をひそめた。筋張った顔に沈み込むような落ち窪んだ黒い目が、じっと少女を見下ろす。

 開かれる口は獣のようでもあった。発される声は――泥沼のようだと感じられた。

「キミが自ら調べたのだろう? その結果はどうだった。同姓同名は存在するかもしれない。しかし名前だけを聞いて回ったわけではないはずだ」

「…………」

 沈黙し、俯く。情報は確かなものだったはずである。兄、徹真の殺害依頼を受けた真籐総司という殺し屋が、どこにいる、どのような人物か。それを徹底的に調べ上げた。同姓同名の別人という線も、実を言えば既に調べはついていた。存在していない。

「しかし……」

「キミは二度の敗北を味わい、さらに命を見逃された」

 反駁しようとする貫那に先んじて、白衣の男が言ってくる。どこか仰々しく、さらには革の手袋をはめた骨のような人差し指を、貫那の額に押し付けながら。

「そうしたキミにとって不可解な出来事のせいで混乱し、深読みし、なんらかの情念を抱いてしまったのだろう。正しきを問う、とはキミの道場の言葉だが、そうした思慮深さが反対に影響を与えたのだ」

 貫那は脳を突き刺されるような心地を味わいながら、目を伏せながら歯噛みした。続けられる声は、やはり泥沼のようで……その奥へと引きずり込まれる錯覚を抱いてしまうが。

「今は考える必要などない。思索は迷いだ。お前は悪を殺したい、それ以外に何が要る? 惑うな、殺せ。無心で悪を殺してこそ……正義だ」

「…………」

 また、沈黙を返す。

 以前ならば――そう、以前に真籐総司の名前を聞かされた時、同じようなことを言われたはずだった。その時には素直に頷いていたのだが……

「……兄上に会いたい。中にいるのだろう?」

 会話の流れとは無関係な、しかし貫那にとっては深く関係する願いを申し出る。が、白衣の男はあっさりと首を横に振ってきた。

「確かに、ここへ来てもらっている。しかし現在は治療中だ。面会は許可できない」

「経過は順調だと聞いている。それなのに、それほど重大な治療を行っているのか?」

「順調だからこそ、だ。忘れないでもらいたいのは、キミの兄は死んでいてもおかしくないほどの重傷だったということだ。崖の間に張った一本の縄を伝っている最中、半分を過ぎたからといって、危険が半分になるわけではない」

 そう言われては、貫那は引き下がる他になかった。夕刻には帰すことができるだろう、という彼の言葉が、小さな救いではあった。

 貫那はそれまでの間、ここで待っていることも考えたが――

「……わかった。私はこれで失礼する」

 ため息のように言って、踵を返す。日差しに反して足取りは重いが、仕方がない。彼女は港に面する道へ向かいながら、今から行かなくてはいけない場所、やらなくてはならないことを自分自身に命じていた。

「…………」

 そんな少女が完全に見えなくなるまで。わざわざその場に立ち尽くすことはなかっただろうと、男は胸中で自嘲した。

 しかし確実を期するためには、その方がいい。そう自分に言い聞かせて、ともかく呼びかける――門柱の奥に潜んでいた、別の少女を。

「出て来い。話は――いや、聞いていまいと構わん」

 男の背後に従えられる少女。わざわざ振り返らずとも、それが誰なのかも、どんな格好をしているのかですらわかる。

 制服を着ているのだろう。学校の制服だ。彼女は確か十七歳だったと記憶していた。近くの高校に通っている。それは全く良いことだった。都合が良いのだ。

 鞄を背負っている。手にも持てるが、背負うこともできるという両用、あるいは半端なものだ。詰まっているのは教科書の類か、あるいは別の物か。男は特に気にしなかったが。

 手には、フルフェイスのヘルメット。これは男が持たせるようにしたものだった――顔を隠すのに、これほど適したものはない。

 珍妙といえば珍妙な取り合わせだが、それらの装備は全て、少女が”外出”する時の定番となっていた。

「行け。奴はどのみち、もう使い物にならんだろう。お前の思うままにするといい」

 言い終わるかどうかという頃には、既に少女は駆け出していた。

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