第10話

 なんの変哲もない、そして今はまだ誰もいない学校の廊下。閉め切られた窓から、朝陽の侵入だけを許す廊下だ。

 修理費用をケチったせいでやたらと薄くなった、自分の部屋の非合法格安窓ガラスとは違う。などと思いながら。

 総司はそこで、背後から強い気配を感じて振り返った。

 誰だ――と叫ぼうとして、やめる。代わりに相手の方が口を開く。

「お、おはよう、真籐総司」

「わざわざフルネームで呼ぶな」

 そこに立っていたのは在原結生だった。いつもの制服、いつものかんざし姿で、妙に緊張した様子で片手をあげていた。

「なんだよ、こんな朝っぱらから」

「あんたが早すぎるせいよ。毎日七時に登校なんて、暇なわけ?」

「うっせえ。それよりまた用事か? 相談は御免だぞ。騒がしいって大家に怒られたしな」

「違うわよ。ただ、えぇと……報告をしておこうと思って」

 そう言って、なぜか目を逸らす。不機嫌なのか、何かを企んでいるのか、顔を赤くし、口を尖らせてながら。

「昨日のあれなんだけど、断ったわ。相手の方も、わかってくれた」

「……そうかよ」

 どうとも言えず、そうとだけ返す。しかし結生の方は心外のように目を丸くした。

「って、それだけ?」

「他になんて言えばいいんだよ」

「それはほら……よかったとか、安心したとか……色々あるでしょっ」

「ねえよ! 何がよくて、何に安心すりゃいいんだよ」

「ぅ……そ、そうかもしれないけど」

 怯んだらしく、結生は身体を引くと咳払いで気を取り直した。

「まあいいわ。とにかくそれが言いたかっただけよ」

「……? 悩みが解決したから、また襲ってこようってんじゃないのか?」

「あ、そういえば!」

 彼女は暢気にも、言われて思い出したらしい。薮蛇だったかと、総司は身構えるが――

 かんざしに手をかけた結生が、ふと思い直したようにそれを下ろす。刃は抜いていない。肩をすくめて、なぜかまた目を逸らしながら。

「やっぱり、その……今はやめておいてあげるわ。感謝していいわよ?」

「…………」

 色々言いたいことはあるというか、殺してやろうかと思うが、学校内なので堪えておく。

「そ、それじゃあね!」

 その間に、結生の方は妙に慌てた様子で、自分の教室へ向かって行った。

 なんとなく取り残された心地で、総司はしばし立ち尽くしていたが――

「……?」

 改めて教室へ行こうとした時、また先ほどと同じ方向、つまり背後に気配を感じた。

 それも今度は結生のものとは違う、明らかに接近してくる感覚まである。足音はあったが、小さい。そしてかなりの速さで、滑るように近付いていた。

「っ――!」

 総司は咄嗟に、横へ飛び退いた。廊下の壁に背中をぶつけるつもりで、接近する気配から離れる――が、直後。

 その気配もまた、全く遅れずにこちらへ付いてきた。そして。

「総司ー、おっはよー!」

「どぅふっ!」

 小柄な少女、桐淵風音の頭突きめいた抱き付きを受けて、総司は壁に叩き付けられた。

「朝から痛そうだね?」

「てめえのせいだろうがっ!」

 抗議に叫ぶが、当人は全く自覚がないように、ひらひらした笑顔を浮かべるだけだった。

 彼女には何を言ったところで無駄だろうと、悟る他にない。

 諦めていると、風音が首を傾げる。きょろきょろと周囲を見やって。

「総司、誰かとお話してた?」

「……まあな」

「前に出てきた女の人?」

「別にいいだろ、誰でも」

「えー」

 なぜか不満そうな声を上げる少女。とはいえ何を言っても無駄だと悟ったばかりなので、総司は気にせず歩き出した。しがみつかれたままで重い上に歩きにくいが、仕方ない。

「なんかこうしてると、コアラの恋人みたい!」

「くっ付くのは親子だし、あれは背中だし、せめてカンガルーの親子で例えろ」

「えー。でもコアラってああ見えて結構凶暴だし」

「……それじゃ余計にダメだろ」

 無駄に色々言いながら、ともかくゆっくりと教室へ向かう。

 総司はもう気配を感じていなかった。少なくとも――

「…………」

 背後で発される沈黙までは、気付くことができなかった。

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