第6話

 声は他でもなく、結生のものだった。彼女が未だ諦めず、やや後ろについてきている。

 ただし、総司はもはやそれを無視することに決めていた。

「こうなったら……仕方ないわ。覚悟しなさい、真籐総司!」

 彼女が駆けながら大声を張り上げるが、「名前を呼ぶな」という抗議すら呑み込む。

 今は目の前の”仕事”を終わらせる必要があった。男はもはや角を曲がる力もなく、直進するだけになっている。だがそれが逆に、このコンテナの迷路から抜け出す道でもある。

 そして迷路から抜け出されてしまえば、そこには海がある。秋風が吹きすさぶ夜の海など下手をすれば死ぬだろうが、そもそも死に瀕した者にとっては光明に違いない。

 距離を目測する。十メートル。

(この距離なら……届くか)

 総司は懐から”輪っか”を取り出した――ただし正確に言えば、それは輪そのものではない。輪っか状に纏められた、鋼線だった。罠を仕掛けるなり、絞首するなり、仕込み武器と同じく”秘器”として使用の幅があるため、懐に忍ばせることが多い道具である。

 総司は駆けながら、その硬質の糸を素早くナイフに巻きつけた。

 手早く作業を終えると、男との距離は当然だが縮まっていない。男がコンテナ地帯を脱出するまでの猶予は、残り十数秒といったところだろう。男の目には、もう真っ黒な海が見え始めているはずだった。

 それを阻止するべく、投擲のために構える。当然、走りながらでは狙うほど馬鹿なことはないため、立ち止まることになるが、やむを得ない。成功すれば、刃を錘とした糸が相手の身体に絡みつき、動きを封じるはずだ。

 滑らせるように足を止め、半身を開く。あとは遠ざかろうとする男に、ナイフを投げつけるだけ――だったのだが。

「くらええええ!」

 響き渡った声は総司ではなく、結生のものだった。そして直後に、ばんっ! と爆竹のような音が弾ける。

 その音の正体を、総司はすぐに理解した。ただし理解した後でなんらかの策を講じることはできない。それは知覚が追いつかない速度で、既に結果を提示していた――

 目の前を走っていた男が、殴りつけられたように身体を跳ねさせ、転倒したのだ。

「なっ……」

「あ、あれ?」

 背後から、暢気とさえ思えるような結生の声が聞こえてくる。総司はすぐさま、呆れと怒りを含めて振り返った。

「馬鹿か、てめえは! 何しやがる!」

「何って……あんたを殺すために、銃を撃っただけじゃない」

 結生は確かに、拳銃を持っていた。それが彼女の秘策だったのだろう。そして愚かにも”走りながら”発砲したため、狙いが逸れたのだ。

「だけじゃない。じゃねえよ馬鹿が!」

 再び罵り、銃を奪い取る。彼女は何か抗議をしたらしいが、それを無視して男の方へと駆け寄っていく。

 途中、鉄製のコンテナの側面に小さな傷を発見する。跳弾の痕だろう。だとすればなおさら悪いと、総司は舌打ちした。

 倒れた男は既に呼吸をしていなかった。背中に穴が空いていて、その位置から、命中したのは心臓の辺りだろうとわかる。ひっくり返して前面を見てみると、そちらには何もなかった。銃弾は体内に残ってしまったらしい。

「くそ! なんでこう全部悪い方向にいきやがるんだ」

「な、何よ。どうせ殺すつもりだったんだから、いいじゃない」

 近付いてきた結生が、どこかバツが悪そうに言ってくる。が、それに対して怒鳴り返す。

「いいわけあるか! こっちは死体をできるだけ傷つけるなって言われてんだ。まして跳弾なんて、どれだけ体内を破壊すると思ってやがる」

 言いながら改めて傷口を確認する。

「銃弾の摘出は……この場では無理だな。どのみち銃声を響かせたんだから、長くは留まれない。銃の暴発や自殺に見せかけるのも不可能だ。一応、血は拭いておくか」

 男のポケットにハンカチがあるのを見つけて、地面に飛び散った血を拭う。暗闇の下なのでほとんど見えない上、大して意味はないが。

「なんか妙に手慣れてて腹が立つわ……」

 結生はなぜか不満そうだったが、無視した。しかし総司はふと、別のことに気付く。それも無視してよかったが――地面を拭く間を潰すように問いかける。

「そういやお前、無関係な人間を殺したってのに妙に冷静だな」

「ふふん、そんなの当たり前でしょ」

 褒められたとでも思ったのか、彼女は急に上機嫌な声になった。胸を張り、得意げに。

「こう見えても、私だって殺し屋なのよ!」

「…………」

 言葉に、総司は思わず手を止めていた。理解するのに数秒を要する。そして出てきたのは、いつかと同じ一言。

「……は?」

「だから、殺し屋なのよ。それも先祖代々から続く由緒正しい殺し屋よ。一時期は殺し屋ネットワークの副理事代理にまで登り詰めたほどで、殺し屋の在原って言ったらうちのことを指してるってくらいの名家なんだから」

「いや……なんかもう付いていけない世界だ。俺と一緒にしないでくれ」

「何よ! そりゃあんたなんかとは血統が違うけど、同業者なのよ」

「そんなわけのわからん世界が殺し屋だっていうなら、俺はもう違う名前で呼んでくれ。『歩行型スライサー』とかでいいから」

「なんでよ!?」

 結生が抗議の声を上げるが、総司は色々なことを諦める心地で、さっさと血の処理を終えて男の身体を担ぎ上げた。そして不満そうな少女に対し、コンテナの方を指で示して、

「おい、あとはてめえがやっとけよ。そこの弾痕とか、適当に誤魔化しとけ」

「なっ!? なんで私が」

「てめえがやったことだからだよ!」

「あんたが避けるから悪いのよ! だいたい私、由緒正しすぎて近代兵器の使い方なんて慣れてなかったんだから」

「そんなんで使うな、馬鹿が! いいからやっとけよ。俺はこいつを指定の場所まで運ばないといけねえんだからな」

 これは死体の損傷制限以上に多い注文だった。殺したいほど恨みがあるのだから、死体を確認したいだの、最後の処理は自分の手で行いたいだの、様々に事情があるのだろう。面倒臭いが、仕方のないことではあった。つくづくサービス業だと思わないでもない。

「ったく……殺し屋ならもう少し考えて動けってんだ」

「むー」

 不満そうな女の声を聞きながら、総司は急ぎその場を後にした。

 残された結生は――

「なんなのよ、あれ。まるで私があいつを殺そうとしたのが悪いみたいに」

 吐き出してから、その語感に違和感を抱くが、無視しておく。それよりも不満を続ける。

「いっそ今からでも殺しに行った方がいいかしら? そうよね、だいたい私はあいつを殺そうとして――」

 そう考えるが、視界の端にちらりと、総司の示したコンテナが入り込んでくる。

「…………」

 結生は総司の去った方向と、銃弾を跳ね返らせた鉄の箱とを交互に見やった。そして。

「今回だけだからね!」

 すっかり見えなくなった憎き相手にそう叫ぶと、コンテナの方へ駆け寄った。

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