第4話

「うおおおおお!?」

 驚愕の悲鳴を上げ、総司は数歩分、その場から飛び退いた

 女を見やると、その手にはいつの間にか細いナイフのような刃物が握られている。さらによくよく見れば、それはどうやらかんざしの中に仕込まれていたものらしい。かんざしが鞘だった、ということか。

「チッ……やるわね、今のを避けるなんて」

「って、告白じゃねえのかよ!?」

 講義のように叫ぶ。が、女の方は予想を裏切ったことに対して、むしろ満足そうに口の端を吊り上げてきた。

「そう思わせておけば油断するでしょ、あんたみたいなクズは」

 彼女の顔に、今までのような大人しい印象は全くない。照れることも、恥らうことも、控えめになることもない。それらが全て作り物であったことを証明するように、彼女は全く正反対の眼光を湛えた、”殺意”の目をしていた。

 その奥には明らかな怒りの炎が燃えている。灼熱の、我が身を焦がすほどの業火を露にした顔。そこに付いた口が、言ってくる。

「まさか、身に覚えがないなんて言わないでしょうね」

「…………」

 総司は――突拍子もなく聞こえる女の言葉に対して、何も答えなかった。

 思い当たるものは実際、何もない。しかし想像することは不可能ではない。

 身に覚え。全くないとは言い切れないのだ。当然だ。

(俺は……”殺し屋”だからな)

 胸中で、総司は自分自身への皮肉も含めてそう呟いた。

 表向きには高校生だが、裏では何人も、何十人、あるいは何百か。数え切れないほどの”仕事”をしてきた。

 それも一朝一夕などではない。今までの人生の大半をそれに費やしてきたのだ。そこに恨みが発生しない理由などなかった。

 そうした己の過去を振り返っていると、女が怒りの声で言う。手にした細いナイフを低く構えながら。

「私は在原――在原結生(ありはらゆい)。聞き覚えがあるでしょう? あんたが殺した、在原剛三の娘よ!」

 口惜しげに告げられた名前に、総司は――特に考えるまでもなかった。首を横に振る代わりに肩をすくめる。

「全く覚えてない。殺した相手のことなんか、いちいち記憶してられないからな」

「なっ……」

 女、結生の顔が瞬間的に、今まで以上の怒りに染まった。紅潮ではなく赤銅色になって、犬歯を見せる。

「あんたは、そんないい加減な気持ちで殺し屋をやってるっていうの!?」

「……なんの怒りだよ、それは」

「許せない理由が一つ増えたわ。今まで以上に覚悟しなさい!」

 だんっ、と土の地面が激しく叩かれる。銃弾のように、彼女は飛び込んできた。体格差を考慮してか、体勢を低くして、腹の前に構えたナイフを下から突き上げる。

 総司は身をひねりながら、前へと身体を投げ出した。それで刃をやり過ごし、女の脇をすり抜けて背後へ回り込む。

 しかし結生も予測していたのか、脚力で突進を制動すると、強引な体重移動で振り返る。

 結果として、ふたりは同時に再び対峙した。お互い、手を伸ばせば届く距離。元々のリーチとナイフの刃を差し引いて五分五分だろうと、総司は見て取った。

 結生が再び先行して動く。ふッと短く鋭い息を吐き、胸に目掛けて刃を突き上げてくる。

 一瞬の間もおかない、ある種の連撃。総司は自分の懐へと手を向けかけて――それをやめると拳を握り固め、再び前方へと足を踏み出した。

 ただし、今度は回り込むことはしない。半身を引く体勢で結生の一撃を通り過ぎさせると、隙の生まれた左脇腹に拳を突き立てる!

 どすっ――というくらいは音がしたかもしれない。胃を思い切り叩き上げると、結生は泥のような唾を吐いてその場に崩れ落ちた。

「げは! が、ふ……」

 息を詰まらせ、喘ぐ女。それでもナイフを落とさなかったのは賞賛に値するかもしれない。しかし一瞬で全身を駆け巡ったであろう激痛と嘔吐感に、すぐには立ち上がることができないようだった。

 憎々しげに見上げてくる結生。それを見下ろしながら、総司は懐に忍ばせていたナイフを、制服の上から軽く撫でた。

「流石に、こんなところで殺しはしない。処理が面倒だからな。けど――」

 愚痴のようにそう告げる。そして、その声に殺し屋としての凄味や害意を上乗せして、

「お前も人を殺そうってんなら、相応の報復を受ける”覚悟”をしてきたんだろうな?」

「…………」

 女は答えなかったが、言葉の意味は理解しているように、口惜しげに表情を歪めた。

(少なくとも、二度と俺に楯突かないようにしてやらないとな)

 そのための拷問は、咄嗟に思い浮かべられるだけでいくつかあった。火あぶり、電気椅子、姦淫――どれも抵抗力を削ぎ落とし、精神的外傷を与えるには十分だろう。

 問題はそのどれもが殺人と同じくらいに、この場所では困難であるということだが。

「うーん。よく考えたら、その場でできるお手軽拷問って少ないよね」

 と。

 突如、心中を代弁する声が聞こえてきた。当然だが結生のものではない。ましてそれは足元から聞こえたものだ。

 総司がぎょっとして視線を下げると――

 そこでは風音がしゃがみ込み、真剣な様子で結生を睨み据えていた。

「って、お前、いつの間に!?」

「え?」

 きょとんと、彼女は顔を上げた。実年齢よりもかなり低く見える瞳をまばたきさせて、

「いつって、ボディーブローのちょっと前からだけど」

「見られてたのかよ!」

 叫び、頭を抱える総司。

 好ましくない事態ことだった。女を殴打する悪辣な男という悪評が立つくらいならいいが、殺す殺さないという話までしている。そこから少し入り込んで、常習的に殺人を行っていることを察されれば、厄介という度合いを遥かに超えてしまう。

(いっそふたりとも殺す――いや、ひとりでも処理が困難だからやめたんだ)

 ならばどうするか。記憶喪失になるまで殴る、必死に説得、なんとか誤魔化す、いっそ脅す、監禁、拷問、支配、洗脳、改造……

 様々な手段が浮かんでは、どれも実行に移せず苦悩する。ほんの数秒だろうが、総司は明らかに焦り、悩んだ。時が経てば経つほど、可能な行動は減っていく。

 しかし――

「あ、それより私、総司を呼びに来たんだった」

 ぽむと少女は手を打った。

「……俺を、呼びに?」

「落し物しちゃって。総司に手伝ってもらおうと思ったんだよー」

「え? いや、えぇと」

 全く暢気に言うと、彼女は気軽に腕を取ってきた。たった今、目の前で女生徒に胃液を吐かせた腕なのだが、躊躇することもなく、ただ「早く早く」と急かして引っ張ってくる。

「大事なものなんだけど、ちょっと放り投げたら高いところに落ちちゃって。私じゃ取れないからー」

「なんで大事なものを放り投げたんだ。いやそれより、えぇとだな――」

 自分の想定から全く外れていたために、風音の感情や思考といったものが理解できず、総司は半ば呆然と、少女に引かれるままになってしまった。

 未だうずくまる、復讐に燃える女に目を向けながらも、それが少しずつ遠ざかり……やがて角を曲がったことで、完全に見えなくなった。

 学生らしい運動部の爽やかな声が近くなる。そうした中に、「覚えてなさいよ」と憎々しげに呟く、掠れた女の声が消えていった。

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