第3話
無視することはできた。が、そうしなかったのにはいくつか理由がある。
(変に悪評が立つのも面倒だしな)
最たるものを思い浮かべて、総司は肩をすくめた。
放課後の体育館。校庭の横に建つそれは、隣接する用具室の間を通り抜ければ、その”裏”へと通り抜けることができる。
学校を取り囲むフェンスと体育館との隙間。人がふたり並べる程度だろうか。ほとんど手入れされていない、背の高い常緑樹が並んでいるため、建物の影と相まって常に薄暗い。
清掃もされていないのだろう。壁にはスプレーで陳腐な落書きがされているし、地面には吸殻やビール缶が転がっていた。
様々な臭気が少しずつ入り混じったような悪臭が漂い、どう贔屓目に見ても、決していい雰囲気の場所ではない。建物越しに運動部の威勢いい声が聞こえてくるのは、どちらとするか難しいところだが。
「ちゃんと来てくれたのね」
そのいずれも全く気にした様子なく。総司が辿り着いた時には、彼女は既に待っていた。
悪環境の中で、むしろ教室で見た時よりも凛とした印象を受ける。単なる錯覚だけでもないだろう。腹の前で手を組んだ彼女は、朝とは違いしっかりとこちらを見つめていた。
切れ長の黒い瞳に、強い意志、決意のようなものがこもっているように思える。
総司は、その視線を受けながら小さく吐息した。
「呼ばれたからな」
適当に答えて、相手の反応を待たずに続ける。
「それで、なんなんだ? 人目があるとまずい用事ってのは」
単刀直入に聞くと、彼女は一瞬、視線を左右に走らせたが、見えるのは壁とフェンス、常緑樹くらいで、人はいない。それでもわざわざそれを確認してから……言ってくる。
「あなたに聞きたいことと、伝えたいことがあるのよ」
「伝える?」
「まず、聞かせて」
声音は朝ほど弱々しくないが、慎重な様子ではあった。僅かに顎を引きながら。
「あなた、恋人はいる?」
「…………」
問いに。総司は沈黙した。
一分ほどは黙っていたのかとさえ思う。実際は十数秒だろう。
その間に、問いの意味を理解して、考え直して、もう一度理解して……繰り返してから、出てきた言葉はたった一言だった。
「……は?」
「いいから答えて。今朝の子は違うのよね?」
焦れるように、女の声が少し強くなる。
(どういうことだ?)
なぜそんなことを聞いてくるのか。総司は意図を測りかねて、胸中で首を傾げた。
それに答えてどうなるのかとさえ思ってしまうが――女の方は若干の上目遣いのまま、じっと答えを待っている。
とりあえず、答えないことには先に進まないらしい。そう理解して、仕方なく。総司は背中がむずむずするような居心地の悪さを覚えながら、答える。
「いねえよ、そんなの。悪かったな」
「そう……よかったわ」
何がいいんだ、という言葉は呑み込んでおいた。またそれと同時に彼女は早口気味に、更なる問いを投げかけてきた。
「じゃあ、好きな人は?」
「なんなんだよ、いったい」
「恋人や、好意じゃなくても、親しくしてる異性はいる?」
「俺はこんなことに答えていかなきゃいけないのか?」
矢継ぎ早な問いをしながら、少しずつ彼女の顔が上がってくるのが見える。声のトーンも同じく、上がっていた。どこか期待するような、明るいものになろうとしている。
さらに数メートルは離れていたという距離から、お互いに腕を伸ばせば触れられるという間合いまで歩み寄ってくる。
総司はそれに妙な圧力を感じながら……面倒臭く、全てに対して首を横に振った。
「女との交流なんて、風音くらいしかない。あれも一方的にあいつが寄ってくるだけだ。これでいいか?」
投げやりに言うと、女は少し落ち着いたようだった。前進をやめて、乗り出しかけていた身体を引き、ゆっくりと息を付く。
「そうなのね。安心したわ」
「安心?」
聞き返す。彼女は微笑するように頷いた。
「ええ。これで安心して……心置きなく、伝えられるわ」
「……まさか、お前」
その時。総司はハッと気が付いた。彼女の意図、目的に。
女が一歩、再び進み出てくる。総司は思わず半歩下がった。心臓が脈打つのを感じる。
女の方も同じく緊張しているように、やや俯き加減になっていた。自分の首の後ろに片手を回し、かんざしを指先で弄ぶ。頬が紅潮しているように見えるのは、気のせいか否か。
いずれにせよ彼女は、そうしながら意を決したように告げてくる。
「真籐総司。私は、あなたのことを……」
「っ……!」
息を呑み、身体を緊張させる。頭半分ほどの差がある女子生徒を見下ろすが、彼女は恥らうように目を合わせてこなかった。
しかしやがて、髪を弄んでいた手を止めて、そっと目を閉じる。
それを再び開けた時。彼女はとうとう、その感情を口にした。
「あなたのことを……あんたのことを、殺したくて堪らないのよッ!」
ひゅんっ――と鳴ったのは、風を切る音だった。そして同時に、銀色の光を放つ弧。それらが総司の首元を掠めた。
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