猫の物語

@ichiuuu

第1話

【猫の見る夢】


             宮 一宇


 不思議な夢を見たような気がした。

夢に白い猫と黒い猫が現れて、自分をいずこへか導く。彼らに従ってドアを開け、見慣れぬ道路を歩いていると、突然、二匹が走り出して、道路のかなたに見えなくなりそうになる。あ! 危ない! そう思った時には既に猫たちは事故にあって轢かれていた。と思ったら白い一匹が蘇り、よろめきながら歩いてどこかへと消えていく。足取りは力なく、身体は血まみれで。彼女はどこにいくのだろう。そこで目が覚め夢は消え去った。夢のようで現実のようで。ひどく悲しい夢だった。


目覚めると見慣れた部屋のベッドにいた。白いシーツ、白い天蓋。早苗はいつものように目をこすって伸びをして、少し様子を探りながらキッチンを通り過ぎ、洗面台に入る。

「早苗ちゃん、おはよう」

 ふいに、よく眼で探ったはずのキッチンから、花恵さんの声が響き、早苗は驚いて目を見開き振り返った。いないと思ったのに。花恵さんは可愛い花柄のエプロンに、栗毛の髪をまとめたヘアスタイルで大層若々しい。とび色の瞳が水晶みたいに光っている。美人なお母さんだね、と学校のみんなにも言われる。そう、確かに花恵さんは綺麗。だけどこの人は、ママじゃない。早苗の顔はどんどん打ち沈んでいく。

 本当のママは早苗が六歳の時交通事故で死んでしまった。あまりに突然に。潮にさらわれるように、早苗の前から消え去った。

それからはパパと二人で暮らしていた。あたたかくて、穏やかなおうちだった。何かが欠落しているけれど、その欠損も、いつかは慣れていった。少しだけいびつな暖炉。

そのあたたかい煉瓦造りの家に、ある日突然に北風が入り込んできた。それが花恵さんだ。花恵さんは、ママを失ったパパと出会い、互いに好きになって、結婚してしまった。早苗の、新しいお母さんになってしまったのだ。けれど早苗はお母さんに古いも新しいもないと思っている。自分をいつも可愛がってくれた、優しいお母さんが本当のお母さん、とそう思っていた。

だから早苗は、新しいお母さん、花恵さんが嫌いだった。花恵さんも自分のことを嫌いだろう、と早苗は決め込んでいた。朝食の席に、パパと花恵さん、早苗の三人で座る。木目の入った、大きな木製の長テーブル。花瓶にはしみみたいな色合いになった、ドライフラワーがさされている。開け放たれたカーテンからは日の光が射し込んで、そのあたたかさがすごく、早苗にはいやに感じられた。

朝食には海藻入りサラダ、目玉焼き、トースト、カフェオレが並んだ。早苗はそれを一生懸命咀嚼しようとして、喉につまりかけて慌てた。よく噛んだら治ったけれど。

なんだか【自称お母さん】のごはんを食べていても、砂や石ころがいっぱい口に入ってしまったみたいに息苦しい。気持ちが悪い。吐き気がする。

お母さんのごはんの時はこんな目に遭わなかったのに。

早苗は耐えられなくなって、

「ごめんね、そろそろ学校の時間だから行ってきます」

と椅子より立ち上がった。パパが半ばあきれたようなまなざしで早苗の皿を見やる。

「こんなに余っているよ早苗」

早苗はちらと、向かいに座る花恵さんの顔を見た。花恵さんも困ったように笑いながら、すん、と肩を落とす。

「そうかあ早苗ちゃん。ごめんね、お母さんもっとお料理上手になれるように頑張るから。この次は食べてね」

 「……はい」

 我ながらこの返事が冷たすぎたような気がして、気まずく思ったけれどもう知らない。早苗はバッグを引っ提げて慌てて中学校に走っていった。

中学校はひわだ色の校舎に日の光が満ちて、明るい印象を与える。まだ入学してふたつきも経っていないから、制服が馴染んでいない気が早苗にはした。そして自分も、みんなの輪の中に混じれない自分も、この空間に馴染んでいない気がした。このクラスでは、みんなグループを作っていて、早苗はどうもその輪からはじかれてしまったらしい。クラスで一番優しいって評判の、ももこちゃんが時折こちらに話を振ってくれるけれど、それはありがたいけれど、早苗はどうにもみんなの輪に入りづらかった。その原因のひとつはみんなが幸せそうだったから、だと思っていた。新しいお母さんが出来てしまった自分に比べて、みんなの家庭は幸せそう。それが羨ましくて、ちょっとうらめしくて、早苗はその幸せの輪にはいることをためらってしまうのだった。

みんなが和気あいあいとお話ししているのが聞こえる。

「聞いてよ、昨日ママったら私のカレーを甘口にしたんだよ。信じられないよね」

 そんな声が早苗の耳に入り込んでくるたび、

(いいなあ、私もママをママと呼べたらなあ)

早苗はまた消沈してしまうのだった。

「あ、なあなあ、みんなあの話知ってるかあ」

また、クラスメートのはつらつとした声が耳に響く。隣の席の男子がはしゃいでいる。坊主頭をかきながら、にこやかに話し出す。

「俺、またあの六丁目の幽霊屋敷の前を通ったんだよ。そうしたらいたんだよ! 黒い髪のながーい……赤いワンピースを着た……」

「ええ、なになに」

 クラス中のみんながびっくりして声をひそめる。やめてよ。聞こえているよ。怖がりの早苗も思わず耳をふさぎそうになる。坊主の少年が心底楽しそうに続ける。

「めちゃくちゃ綺麗な女の人をさー! 」

なあんだ、とみんなの口から安心したかのようにと息が漏れる。

「すごい綺麗な人だったよ。まるで人間じゃないみたいだった」

「へえ、見てみたいけど、あそこ人形いっぱい飾ってあって怖いしなー」

 六丁目の、幽霊屋敷……。早苗は口の中で何度か繰り返し呟いてみて、急に寒気を覚え、それから少しだけ、興味がひかれた。


六丁目の幽霊屋敷。そこは古い洋館だった。裏道にあって、日に焼かれすぎたような外観は洒落ていた。入口にはアーチがあって、赤い薔薇が少しだけ咲き始めている。裏道に面した方の外壁はガラス張りで、そこには確かに、棚に置かれた人形たちがずらりと並んでいた。人の形をしたものも、猫のかたちをしたものも。どれも完成されているが、そのあまりの完成度の高さゆえに早苗は怖くなった。今にみんながしゃべりだして、けたけた笑い出したらどうしよう。

「うへえ……」

ホラー番組を見る時と同じような気持ちだった。みんなの話に興味と怖さを感じて、ついつい見てみたくなってしまった、六丁目の幽霊屋敷。 ここは思った以上に怖い場所のようだ。早く立ち去ろう。そう思っていたのに、早苗は一匹の猫の人形に魅入られてしまい、動けなくなった。美しい、闇のような毛並みをした猫。それが二足立ちして、王子様のような恰好を纏ってこちらを見つめている。

「綺麗……」

その瞳が青い宝玉のようで、早苗はしばらく人形を見つめ返した。すると。

「なにか、お気に召しましたか」

 頭上から声が降ってきた。びっくりして振り向くと、そこには白髪のふさふさしたおじさんが立っていた。

「さあ、召し上がれ」

 白髪のおじさんに招かれるままに、早苗が洋館の中に入るとそこは別世界だった。白いテーブルが飴色の床に置かれて、そこでおじさんはキャラメル入りホットミルクを出してくれた。キャラメル味の、甘くてあたたかい味わいに緊張していたこころがほどけていく。

「で、お名前は早苗ちゃんだったよね。早苗ちゃんはもしかしてこの猫の人形が気に入って立ち止まってくれたのかい」

 はい。早苗がちょっと緊張しながら頷くと、おじさんは珈琲を口に傾けて、微笑んだ。

「嬉しいよ。おじさんもこの人形が好きなんだ。ナイトというんだよ。呼んでごらん」

 早苗はこのおじさんは、少し変わっているのかもしれない、と思いながら、そのまなざしの柔らかさに抗えず呼んでみた。ナイト、と。しかし無論、黒猫は返事をしなかった。

「おや、返事をしないねえ。彼は無口だから、喋らないのも仕方ないかもしれないね」

「……私と同じですね」

 早苗はつと口にしてしまった言葉を、再び連れ戻すように慌てて強く口をつぐんだ。その言葉は確かに発されたように思ったのに、おじさんはただたた微笑むばかりだった。その笑みの柔らかさ、穏やかさ。おじさんと、この洋館のかもしだす雰囲気が気まずいものではなく、どこか優しくて。ここには、自分の敵は誰もいない。誰も知らないかわりに、誰もいない。早苗はどこにもおろせなかった【新しい母】と書いてある荷物を置けて、ようやっとひとここちつける気がした。

いけない! とそんな自分を自制する。この荷物は、おろすには重すぎる。

「君に似た人がいるんだ」

 おじさんはややあって再び言葉を紡いだ。

「画家さんでね、それは綺麗な人だが、どこか寂しさを背負っている。今度紹介しよう、珠子さんというんだ。きっといいお友達になれるよ」

 珠子さん……もしかして、あの坊主君が言っていた人かしら。黒い髪に赤いワンピースを着た綺麗な人、早苗はぼんやり思案した。

それからもおじさんの不思議な話は続いた。

「死人は蘇りそうで、蘇らないんだ」

 とか、

「この絵は珠子さんが描いた絵なんだよ。すごく綺麗で、そして寂しげだろう」

とか。おじさんの指さす先、その絵は確かに、一匹の猫が道路に茫然と佇む、悲し気な絵だった。

不思議な話がいくらでも続きそうだったから、早苗は塾があると言って屋敷を辞した。別に、おじさんの話がつまらなかった訳ではない。ただ、なんだか【背負う荷物】を口に出して簡単におじさんにも預けんとしようとした自分が怖かったのだ。そんな弱い自分が、ただただ憎くて恐ろしかった。

 不思議な気分で家に帰った。玄関を開けると、うわ、カレーの匂い。これがママの作った料理なら素直に喜べるのに。これを作ったのは、あの人の手。あの綺麗な瞳をした、ママじゃないママの手。

早苗は吐きそうになる心地をおさえ、リビングの前を通った。そこで、早苗はある異変に気が付いた。ない、どこにもない。あの花瓶にさしたままのドライフラワーはどこに行ったの?

「あ、早苗ちゃんお帰り―」

 花恵さんが朗らかな笑顔で早苗を迎えた。花恵さんは綺麗だけど、ママとは似ていない。

ママは花恵さんみたいに綺麗じゃなかったけど、いつも朗らかに柔らかく笑っていた。

早苗は給食を戻しそうになる衝動をこらえて、なんとか口を切った。

「花恵さん……あの、ドライフラワー、は」

「ああ、あれ?」

 花恵さんが朗らかに笑んで続ける。

「あれねえ、もう枯れちゃっていたから捨てちゃったの」

 早苗は慟哭しそうになった。息が苦しい。喉が炙られるみたいに熱くて、涙が次から次にこぼれて。それを見られたくなくて、早苗は顔をうつむけた。


あの花はお母さんがいつか生きている頃に買ってくれたのと、同じ花だったのに。だから花が枯れて死んでもいつまでもとっておきたかったのに――捨てちゃったんだね。


花恵さんはまるで気が付かない様子で饒舌にしゃべり続けた。あ、というか今早苗ちゃん、花恵さんって呼んだなあ。ちゃんとママって呼んでくれないとママ悲しいなあ。次からはちゃんと、次からはちゃんと――。

「うっ」

 早苗は次には給食で食べたものを全部押し戻すように吐いていた。花恵さんの足元に吐しゃ物が広がる。花恵さんは一瞬顔をひきつらせて、すぐに青く顔色を変じた。早苗の吐き気はおさまらず、まるで病身の猫のように吐き続ける。

「早苗!」

 そこで早めに帰ってきたパパも異変に気がついたらしく、玄関から急いた息を漏らしながら走り込んできた。

「早苗、大丈夫か早苗!」

「ごめん、なさ……」

 早苗は泣きながら、パパの腕の中でしきりに首を振った。

「もう無理……ごめん、もう無理……」

あたりは吐しゃ物の臭いで、カレーのよい香りがまったく消えさってしまっていた。花恵さんは茫然と立ち尽くしている。早苗は臭う涎をぬぐいながら、泣きじゃくっていた。

 それからは家の雰囲気が絶望的に悪くなった。花恵さんは早苗に無理に話しかけることをせず、パパもまるで腫物に触るように会話を短く済ませるようになった。早苗は二人がいるリビングを通るたびに息が苦しくなって、泣きそうになるのをこらえて顔を俯けた。

その日も、早苗は学校に行こうと玄関で靴を履いていた。すると、靴の音を聞いてきたのか、花恵さんがリビングより現れた。

「これ、早苗ちゃん、よかったら」 

その右手にはお弁当箱がさげられていた。花恵さんは眼も合わさずに早口で言った。

「よかったら学校で食べてね」

 そうして彼女は玄関先に立ち尽くしている。何か言いたげだけれど、その唇が凍ってしまったかのように。

早苗はその場の雰囲気に耐えられず、お弁当袋をひったくるようにしてさらって、急いで駆けだした。

早苗は打ち沈んだ気持ちで授業をやり過ごし、放課後を迎えた。結局花恵さんのお弁当箱はあけなかった。そのことが胸が詰まるようで、なんとはなしに罪のように思われて、だけれどお弁当箱をあける勇気はなくて。

私、どうしたらいいの。

そんな気持ちで一人ぼっちの放課後、初夏の夕暮れの空気を浴びながらあの洋館へ向かった。誰に受け入れられなくても、あの洋館だけは、おじさんだけは、ナイトとだけは自分と通じあえる気がした。そしてまだ見ぬ珠子さんとなら。

洋館のドアをノックしようとすると、玄関に置いてある、緑の古ぼけた小さなメッセージボードに、こう書いてあるのを認めた。

【ご自由にナイトを見ていってください】

 それが自分のために書いてあるのを早苗は理解して、ちょっと嬉しくなってすぐにドアを開いた。靴のまま上がる。あがってすぐの廊下に飾られた絵画の数々。どれも聞いたことのない画家の名前だった。その中で早苗はやっぱり、一匹ぼっちで佇む白い猫の絵に眼をひかれた。

それは見たことのない道路に、黒猫が轢かれて、血まみれの小さい身体が鮮やかで。その前に白い猫が立ち尽くしている。綺麗で悲しい絵だと思った。

「綺麗な絵でしょう」

 ふいに、声をかけられて、早苗は顔をもたげた。もたげた先では見たこともない程に綺麗なお姉さんが立っていた。黒い髪がつやつやして、白い肌は透き通るようで、唇は薔薇みたいで。黒い髪に襟付きの赤いワンピースを纏うこの女性に、早苗はぼんやりと見とれた。

「あなたが、早苗ちゃん?」

「は、はい」

「緊張しなくていいのよ。私は珠子。この絵を描いたのは私よ。みとれてくれてありがとう」

 そのみとれる、がどっちの名詞にかかるのか分からなくて、早苗はしどろもどろになり、あ、いえ、としか声を発せなくなってしまった。あまりに美しい、珠子がふふ、と微笑む。

「あつしさんから話は聞いているわ。私たち、仲良くなれそうね」

「あつし、さん?」

「あの白髪のオーナーよ」

珠子は白い大きなテーブルについた椅子をひき、腰かけた。早苗ちゃんも、座りなさい。にこやかに微笑んで、それから告げた。

「早苗ちゃん、もしかして、調子悪い?」

「あ、はい」

突然の質問に素直に答えてしまって、早苗は慌ててそれを打ち消さんとした。珠子はまた綺麗な笑みを浮かべた。

「いいのよ。ちょっとこちらにいらっしゃい」

珠子が手を招くように動かして、ぼんやりと近寄る早苗の手をとった。そしてそれを己が額にかざした。すると不思議に、早苗の中の不安感や吐き気がおさまった。久しく感じていなかった人のぬくもりのせいだろうか。それともこの人間離れした美しさの女性には、人間では持ちえない、不思議な力でもあるのだろうか。なんだか何も話していないのに、すべてを話しつくしたような気さえする。重い荷物を、少し、一緒に背負ってもらったのかのような。

「珠子さん、すごい……魔法使い、みたい」

「そんなことないわよ」

 珠子はそれから、何もかもを見透かしたような瞳をして語った。

「早苗ちゃん、人間ってね、ずるくて卑怯で、優しいから、誰でも間違いを起こすのよ。だから、許すの。何もかもを、そうなんだ、って、許すの。私もそうやって大切な人を失った悲しみを癒そうとしてきたわ」

「珠子さんの、大切な人?」

「うん、もう死んだの。私の恋人よ」

早苗はふいに、珠子が描いたあの絵のことが気にかかった。あの、独りぼっちの白い猫。あれがきっと、珠子さん自身なんだろう。

「生き返らせて、あの人を生き返らせてって、私も何度も願ったわ。だけれど無理だった。どんなに願っても……だから私、一生あの人だけを思って生きるの。それ以外に私の生き方はないわ。永遠に一人ぼっちの、旅人のような生き方ね」

「珠子さん……だけどそれは」

早苗はふと、自分のうちに湧き出た疑問を口にしてしまっていた。

「とても、寂しくはないですか?」

 珠子は淡い微笑みを浮かべた。

「……少し、寂しいわ」

 その言葉に、早苗は思い返していた。いつかママが亡くなった日のことを。パパは死人になってしまったママの額に手を置いて、涙を流しながら呟いていた。

「……少し、寂しいな」

ああ、パパも同じ気持ちだったのだ。途方もなく孤独で、気が変になりそうなくらい寂しくて寂しくて。それでも一人で生きているのが珠子さんで、その悲しみを預けられる人が出来たのが、パパ。早苗はふと、今朝預けられた花恵さんのお弁当箱を取りだした。鞄をあけ、銀色のお弁当箱の中をひらいてみる。

「わあ……」

そこには色とりどりのゼリーが七つも詰め込まれていた。オレンジ色、葡萄色、苺色――。スプーンがゼリーの数だけ用意されていた。そのどれもに花恵さんの気持ちが詰まっていた。なんだか泣きそうになった。なぜだか分からないけれど。その後で早苗はほんのりと優しい気持ちになった。

「ねえ、珠子さん」

「なあに」

私は独りぼっちなの? 

この疑問は荷物は、誰に預けられなくても、自然に軽くなっていくかもしれない、そんな風に思った。

 早苗は、ずっとパパに言いたかった言葉を、彼女にぶつけてみた。

「もう一度、会いたいと思う? その亡くなった恋人に」

 早苗が問うと、珠子は音もなく目をふせて、頷いた。

「そりゃあね。ずっと、会いたいわ」

 家に帰ると、玄関先から優しいポトフの匂いが漂ってきた。

「ただいま」

人気のない玄関ホールで、早苗が小さく呟く。ちょっとの罪悪感と、膨らみそうな喜びを感じながら。

「あら、お帰りなさい早苗ちゃん」

花恵さんがリビングから顔を出して破顔する。その顔を見つめながら、早苗はぎこちなく笑って、自然な声音で言い放った。

「ただいま、ママ」

 そう言って、早苗は慌てて顔をうつむけた。言った。言ってしまった。人生で初めて、

花恵さんを、ママと呼んだ。長い沈黙が早苗と花恵さんの間に介在している。言わなきゃよかったかも、そうよぎった自分もいる。

花恵さんは、ママはどんな顔をしているだろう。緊張してしまって、まともに顔を見られない。下げた顔からうかがえる花恵さんの足先は微動だにしない。早苗が顔をもたげる。

花恵さんは声を殺して泣いていた。時折顎先まで垂れる涙を、苺柄のエプロンでぬぐっている。それからママはにこやかな顔で、深く顎をひいた。

「ずっと待ってたよ。お帰りなさい」

 ママと打ち解けた夜に、またあの夢を見た。二匹の猫が駆けていって、轢かれた。血みどろで、足は砕かれ、後続の車にも轢かれ無残な姿になった。すると白い猫がまた蘇り、今度は早苗になついてきた。可愛くて、かわいそうで。早苗は思わずその白猫を抱きしめた。その白猫も腕の中で溶けていった。そんな、悲しい夢だった。


 それからひと月もしないで、七夕の夜がやってきた。以前のような頻度ではないにしろ、早苗はおじさんと、珠子さんに会いにこの古びた屋敷を訪っていた。あつしさんは

「おそらく、今年の七夕がここで見られる最後の七夕だよ」

と言って、私と珠子さんにジュースを作ってくれた。ジンジャエールをあけて、とぽとぽとガラスのグラスに注ぐ。

あつしさんの台詞がどうも意味深長だったけれど、深く追求など出来るはずもなかった。彼はしばらく出かける、留守を頼むよ。そう言って町に消えていった。提灯が風で揺らぐさまが夜景が、洋館のテラスから見下ろせる。夏の夜は涼しかった。ああ、あの光には、あの無数の光には浴衣には、人には様々な人生があって、みんな何かに悩みながら、生きている。あるいは恋人に死なれた人、あるいはそこから立ち直ろうとしている人。あるいは、ずっと。そこに立ち止まり続けている人。

七夕の夜はこの街の夜景が一段と見事になる。ビルの明かりと、月明かりと、祭りに出される提灯の光。翻るのは様々な色合いの浴衣。この夜も、街にはそんな光が満ちていた。

いつか、珠子さんの寂しげな背中を見送ったあつしさんが、こうつぶやいたのを覚えている。

【あの人は永遠にかなわぬものを夢見ている】

 それがどういう意味だか、早苗には今もって分からなかった。だけれどその背中の寂しさからは、何か大切なものを失い、身体の半身が欠落してしまった悲しみがひしひしと伝わってくるのだった。

街をのぞむ丘の上にある洋館、テラス席にて、珠子さんと二人でジンジャエールを飲み干す。本場のジンジャエールは苦くて、喉に噛み付くようで、けれど美味しかった。

爽やかな味だった。刺激と甘さと、ほんのりした苦みが、今の自分をとろかすようで。

「いつか、二匹でこの夜景を見たことがあるの」

珠子さんが静かに言葉を発した。

「私たちは色鮮やかな綺麗な夜景を見下ろして、綺麗だね、綺麗だねって言い交した……七夕に引き裂かれたカップルだって今日は銀河で出会えるのに、どうして私たちは出会えないのかしらね」

 早苗はなんとなはしに珠子さんの顔を見られず、銀河を映すジンジャエールの湖面を見つめていた。ジンジャエールのあわがぷかぷかと浮かんでははじけて消え去った。

「早苗ちゃん、私ね」

「うん」

「一度、死んだの」

 早苗の息が一瞬止まりかけた。驚いたけれど、揺らいだ感情がどうしてだか声にまとまらなかった。そうなんだ……と。自然に、その事実は早苗のなかにおさまった。

「七夕の夜、人でが多くなった道で車に轢かれて、二匹して、死んだの。とても痛かった」

珠子の瞳は凪いだ海のように静かだった。

「でも、私よりあの人の方が痛かったと思うの。黒い毛にいっぱい血が滲んで、目もうつろでぼろぼろになっても、私の心配をしてくれた……」

 早苗はふいに、泣きそうになって、こらえようとする。夜空から地表に、大輪の花火がちらちらと散っていく。

もうじき祭が終る。

とても不思議なことが起こっているのに、その現象は自然と、早苗の中に溶けていくようだった。

「愛していたの。あの人のことを、心から。大好きなお兄ちゃんで、大切な恋人だったわ」

 珠子の眼に、街の灯りで火が点じられていくようだった。

「だから、それを殺した人間が憎くてたまらなくて、何度も願ったの。神様、人間を殺してくださいって。だけれど、分からないものね」

いつの間にか、早苗には珠子が一匹の白猫に変じたように思われた。血だらけでボロボロになった、瞳の大きな白い猫。

「私は生まれ変わって人間になって、前世を絵に描いたら、それに心をうたれる人間がいて。その人間たちと仲良くなるなんて」

 白い猫はふいにこちらを見やった。早苗もこみあげる感情を表現しがたくて、ただ見つめ返した。白い猫は、愛らしく鳴いた。可愛らしく、だけれど、寂しげに。

「私たちのことを、理解してくれてありがとう。早苗ちゃんのこと、大好きよ」

次には早苗は白い猫を抱きしめていた。自分の背丈ほどある、白い毛並みの美しい猫を、力強く抱き留めた。ありったけの、声にならぬ声をこめて。

「私も、忘れない……」

 早苗は白い毛並みのあたたかさを忘れないように、力いっぱい抱きしめて、呟いた。

「あの絵のことを、あの絵を初めて見た時の気持ちを、珠子さんのことも、ずっと、忘れないよ……」

 二人が抱きしめあっている間も、祭り拍子がか細くどこからか響いて、耳に残った。それは淡い夏の記憶だった。小さな、ささやかな、だけれど忘れがたい、美しい夏の記憶。

 あれから、早苗はあの洋館で珠子に会うことがなくなった。あの女性は幻だったんだと、思うこともあった。まるで蜃気楼みたいに、美しくて儚い、淡く忘れがたい現象が起きたのだと。

「あの幽霊屋敷、壊される予定なんだって」

クラスのお調子者の男子がホームルームの時間におもいきり騒いでいたのが聞こえた。

「ええーそうなんだ。早苗ちゃん、知ってた?」

ももこちゃんが早苗に話をふる。早苗はなんと答えるか、一瞬の刹那悩んだ。前までの自分であれば、

「さあ」

と答えて終わっていただろう。

だけれど、今は違う。

「ええー知らなかったなあ。ももこちゃん、知ってた?」

早苗が明るい声で尋ねる。ももこちゃんがその時、とっても嬉しそうな顔をした。それはとても綺麗だと思った。

早苗は眼を開けて、空をあおいだ。今日は雲一つない。この分ではこの地からも銀河が見られるだろう。そんな思いが、自分のこころによぎった。

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