第18話 ハンデを乗り越えた将軍 徳川家重

徳川家重(1712-1761)

江戸幕府の九代将軍。八代将軍・吉宗の嫡男として生まれるが、彼は生来の脳性麻痺からくる言語障害を抱えながら将軍を勤め上げた異彩を放つ人物だが、その治世は江戸時代で最も安定していたという評価もあるほど優れていたようだ。如何にして彼はハンデを乗り越えたのだろうか、その実像に迫ってみよう。

若い頃は自暴自棄になり、女色・酒に溺れていたようだ。その為幕閣からは不人気で、文武に長じた二男・宗武を次期将軍に推す動きが出てきていた。しかも、この宗武派の中心人物が家老の中でも特に吉宗の右腕として働いた実力者の松平乗邑であったため、一つ間違えばお家騒動となってしまう。混乱を収めるべく、1745年に吉宗は家重に将軍職を譲り、自らが後見する形をとって後継問題を決着させた。これ以後の家重は政務に対して真摯な姿勢を見せていることから、親子の間で固い信頼を確かめ合うやり取りがあったのかもしれないが、想像の域を出ない。また、吉宗が傀儡として御しやすい家重を選んだ説もある。はっきりしていることは家重が将軍職に就いたころは、そういうお家騒動の残り火もあり、また吉宗の進めた享保の改革の負の遺産(増税による民衆の不満・多発する一揆という社会問題)があり、難しい舵取りを余儀なくされたということだ。

就任当初は父の影響が強く、大きな路線変更はできなかったものの、いくつかの成果を上げている。勘定所(財政担当)の役職を充実させ、現在の会計検査院(内閣に対して独立性をもって財政を監査する)に近い制度も設けたという。また、酒造に関する規制緩和を行うなど、商業は素人であった父には足りなかった現代的な経済センスをうかがわせる施策が見られる。

そして父の死後は更に家重の手腕が発揮されるが、健康が悪化してしまったためにこの頃には側用人である大岡忠光以外には言葉が伝わらない状態になってしまっていた。しかし、家重は最大級の一揆を解決しなければならなかった。1755年の郡上一揆である。父の代からこの地域は藩と農民との軋轢が多く、それが再燃したのだ。ここで家重は“真相の徹底解明”を打ち出した。ここまで対立が繰り返されるのは、身内に巣食う膿が深刻であるためだと考えたのだ。その際に新しく起用した人材が、江戸時代最高の商業通である田沼意次である。意次は期待に応えて真相を暴く。現地の代官が不当な取り立てをしていること、目安箱制度を悪用して不当な処罰を頻発させていること、それらに幕府の老中までも関与していることが明らかになった。家重はこれら重臣たちを厳罰に処し、そして今後の代官は「徴税重視」から「民政重視」であるべしと厳命して、民衆を大事にすることを公言したのだ。

こうして負の遺産を清算した家重だが、側用人の忠光が病死すると嫡男の家治に将軍を譲り隠居し、1年後生涯を終えた。遺言は「田沼を重用して政を行うべし」。

家重の一生を見ると、事を成すのに大事なのは意志を持つこと、伝えること、それをチームで一丸と出来ること。特別な才よりも、そんな当たり前の大事さを思い知らされる。

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