第16話 島津軍略の最高傑作 島津家久

島津家久(1547-1587)

戦国島津四兄弟の末弟。祖父に「軍法戦術に妙を得たり」と評され、その後も島津の武の代名詞として、兄・義弘と双璧をなした軍略のスペシャリスト。家久の戦ぶりで特筆すべきは、寡兵をもって敵将を逃さず討ち取ることが非常に多かったことだ。これは相手の退路なども視野に入れた戦術眼の鋭さが群を抜いていたためではないかと思われる。

若いときに、兄・歳久に出自の低さを馬鹿にされた逸話がある(家久は身分の低い側室の子であり、歳も一回り下であった)。馬の稽古の後、馬を眺めながら歳久が「馬も人と同じで母に似るものでしょうな」と他の兄に語ったが、長兄の義久が「そうとは限らん。父に似る馬もある。それに人は学ぶことで父母を超えることも、怠ることで劣ることもできるのだ」とたしなめた。歳久は自分の失言を恥じ、その後は思いやりあふれる武将になり、傍で聞いてた家久は感激し人一倍努力して、兄に並ぶ武将になった。

そして、初陣も華々しい。1561年、家久15歳のときに敵将の工藤隠岐守を槍あわせで討ち取った。指揮官としてだけではなく、個人の武技にも長けていたことが伺える。その後も九州統一を目指す島津の中心武将として活躍し、1584年には、遂に兄に代わって総大将として出陣し、島津家の命運をかけた一戦を任された。この戦いを「沖田畷の戦い」という。相手は九州の北西部を支配する龍造寺隆信。「肥前の熊」とよばれ、一代で主家を乗っ取り、苛烈な戦ぶりで恐れられた男だ。彼が六万ともいわれる(諸説あるが)大軍で南下してきたのだが、島津は大友家を押さえ込むのに兵が必要なので、この方面には五千の軍しか送れず、家久の手腕に頼るほかない状況だった。この期待に家久は見事にこたえる。大軍に奢る龍造寺軍を狭い地形の沖田畷に誘い込むと、島津の得意技“釣り野伏”戦法(左右に伏兵を置いて、中央軍が偽退却して敵軍を引きつけて後、三方向から包囲殲滅する)で迎え撃つ。ここで隆信は無策のまま左右を沼地に囲まれた狭い一本道に入り込み、今度は大軍が仇となって身動きが取れない状況になってしまった。隆信の陣が伸びきったのを見計らった家久が左右から一斉射撃で襲い掛かる。隆信は次々と将兵を失い、四天王といわれた龍造寺の重臣を失い、自らも討ち取られて龍造寺は衰退の一途をたどることになる。この手柄で家久は初めて自らの城を任され(これまでは部屋住みの身だった)日向方面の攻略を担うことになる。37にしてようやく兄に並べたと、感慨もひとしおだっただろう。

名実ともに島津の主力となった家久は次も鮮やかな戦で大軍を討ち取る。相手は秀吉の名代として九州に上陸した仙石秀久・長宗我部父子ら二万の軍だ。家久は一万の軍を率いて対峙する。これを戸次川の戦いという。家久はやはり釣り野伏の戦法で戦いを挑む。この頃には、かつて島津に釣り野伏の餌食にされた経験を持つ大友軍が秀吉軍に加わっているはずなのに、まんまとしてやられている。この辺は、計略と勘づかせない家久の手腕をほめるべきか、秀吉軍の油断を責めるべきかは難しいところだが。そして、家久は敵将の長宗我部信親・十河存保を討ち取る大戦果をあげる。だが、島津と豊臣では国力の差が大きすぎた。その後は大軍を持って攻める秀吉の前に、島津は降伏を決意。家久はその最中の1587年に急死する。病死である説が有力だが、その戦術をおそれた豊臣家による毒殺説も未だ囁かれている。それほど、家久の勝ちが鮮やかさで印象に残るためであろう。

今回は彼の戦歴ばかりに焦点があたったが、実は彼のもうひとつの顔もドラマチックで興味深くて、28歳の頃に伊勢神宮への参拝をしながら、水戸黄門のような世直し旅をしたという記録もあるのだ。これは別の機会にお披露目することにしよう。

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