第15話 島津の守り神 島津歳久

島津歳久(1537-1592)

戦国島津四兄弟の三男。祖父から「始終の利害を察するの智計並びなく」と評された。祖父は他の三人の評もしており、見事に個性を言い当てているが、歳久に関してだけはちょっと違和感があって、むしろ損な役回りが多い生涯に見えるのだ。

初陣は1554年、歳久17のときであった。兄の義久・義弘も共に初陣で、岩剣城の攻略を成功させている。また、大口堂崎の戦いでは、義久・義弘が敗走して命の覚悟をしたという場面で、わずかな手勢で救援に駆けつけて救援している。彼が“知”のみではなく“武”でも優れていたことがわかる。一方“治”の方でも1563年には吉田城主となって現在の鹿児島市の北部の統治を任された。歳久の領土は後に祁答院地方も加わることになるのだが、どちらも共通して領民に大変慕われていたために、その後の領主が苦労するほどであったという。今でもこの地方には歳久の役職“金吾”にちなんだ「金吾様踊り」という祭りが残っており、人々との絆の強さを偲ばせる。

九州制覇を目前とした1583年、島津家は秀吉の停戦命令をうけ、決断を迫られていた。ここでの歳久の行動は興味深い。家中が秀吉を“農民上がり”と侮り抗戦を主張する中、唯一「それは逆だ。農民からあそこまで上り詰めたのは只者ではない。戦をやめるべきだ」と主張したのだ。これは祖父の評した通り、まさに「始終の利害を察するの智計並びなく」なのだが、その後秀吉に敗れて家中が和睦へと傾くと一転して「和睦には時勢があり、今、このまま降伏すべきではない」と徹底抗戦を主張。最後まで和睦に反対し、遂には和睦の為、島津家を訪れようとした秀吉の駕籠に矢を射かけるというほどであった(空の駕籠だったので秀吉は無傷)。この行動には歳久のどんな思いがあったのだろうか。一つは“農民上がり”という概念、すなわち身分の壁をとりはらって物事をみえていたこと(ただ、若いころは側室の子である弟を差別するような発言をして義久に諭されたことがある。その分深い反省が見識を変えさせたのだろうか)。一つは、自分の意見というよりは「組織の意見がバランスを損なわないこと」のためにあえて反対意見を述べていたのではないか?偏った意見の組織は“暴走”することしばしばである。この視点から語っていたのなら知性の高さがうかがえる。秀吉に矢を射ったことは軽率に感じてしまうが、これに考えがあるとすれば・・・?すでにたくさんの家族を失ったために秀吉に反発する家臣はまだ多かった。彼らの暴走を鎮め、自分が代わって矢面に立つことを選んだというなら・・・これまでずっと兄弟を支え、領民に慕われてきた歳久の素顔と一致してはこないだろうか。そして、その後は秀吉に睨まれ続ける結果となった。

1592年、遂に秀吉は島津家に歳久の追討を命じた。駕籠の一件以降も反抗的だったことや、朝鮮戦役の出兵を病の為と拒否したこと。加えて、梅北一揆という反乱に多数の家臣が参加したことが決め手になった。追討軍を前にして、歳久は自殺をしようとしたが病気の為に刀がうまく持てず、中途半端に傷を負い苦しんでいた。その時の歳久は「女もお産の時はこのように苦しいのだろう。死後はそれを助ける神になりたいものだ」と語ったという。同じ島津家の追討兵は涙ぐみながら介錯をした。53年の生涯であった。

この四兄弟は他の三人が華々しいため歳久は地味な印象なのだが、それは凡将だからというよりは、己よりも周りの方を重んじる生き方に由来していたのだと思われる。死後、歳久は望み通り安産の神として奉られることになった。またその精神は西郷隆盛の代まで薩摩武士の鑑となった。こういう存在を評する言葉としては「智計」よりも「守り神」がしっくりくるのだが、ご共感いただけるだろうか。

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