第14話 文武両道の鬼島津 島津義弘 後編

朝鮮入りした義弘は大遅陣の雪辱を果たさんと、鬼神の働きを見せる。その中でも、飛び抜けているのが1598年の泗川の戦いで、五万を超す明・朝鮮の連合軍(二十万とする説もある)を相手に、七千で撃破するという驚異的な戦果を残した。緒戦は連合軍が島津家臣の川上忠実が守る泗川古城を落としたものの、忠実は隙をついて連合軍の食糧庫の焼き討ちを成功させ、連合軍に短期決戦を強いる状況を作った。その上で義弘は立花宗茂らの援軍申し入れを断り、単独で迎え撃つ態勢を整える。まず、泗川新城を背に強固な陣を張り、左右に伏兵を配置した。島津に度々奇跡をもたらした“釣り野伏”の戦法だ。島津兵は幾多の逆転劇を演じたこの戦法に長けており、一枚岩で士気も高かった。また、地雷を埋めたり、鉄片を砲弾代わりにした大砲など、物資不足の中にあって工夫を凝らした陣を敷いていたという。連合軍が攻め寄せると、引き寄せてから大量の鉄砲隊による一斉射撃で出鼻をくじく。ほとんどの弾が命中して、連合軍がひるんだところへ大きな爆発音が轟く。連合軍の火薬庫に引火したのだ。大混乱に陥ったのを見計らって、義弘は左右の伏兵を動かす。次いで義弘本隊も攻勢に転じて連合軍を叩きまくる。壊走する連合軍は南江から退却しようと図るが、島津軍の激しい追撃にあい、溺死者をいたずらに増やすことになった。その数は三万六千を超えるとされている。他にも朝鮮水軍の名将・李舜臣を討ち取った露梁海戦など、日本の各大名は噂でしかなかった島津の強さを目の当たりにすることになった。明・朝鮮側からは

鬼石蔓子(グイシーマンズ)、こう呼ばれ恐れられた。島津はこの戦役で唯一、加増されたことからも尋常な働きではなかったことがうかがえる。

秀吉の死後、日本に戻った義弘の最後の舞台が関ケ原である。秀吉の死は島津家の反豊臣の空気を加速させており、本国の義久からの援軍をもらえぬまま西軍として参戦する。西軍が小早川秀秋の裏切りにより敗走すると、義弘は逃げる西軍兵とは逆の向きに兵を進める。既に東軍が退路を押さえていたので、敵陣突破して退却することを選んだのだ。後世「島津の退き口」と呼ばれる壮絶な退却戦である。死中に活を求め、旗指物を捨てて決死の集団と化した島津兵三百は、まず猛将で知られる福島正則隊へ突撃する。朝鮮での島津を目撃した正則は深追いを禁じる。義弘とすれ違う隊は皆そのように対応したが、家康本陣に迫ると、義弘は進路を南に変えて、伊勢街道を目指して離脱を目論む。さすがに家康はこれを見逃さない。“井伊の赤備え”と名高い家康自慢の精鋭部隊三千五百で、南下する義弘を追わせた。このときの島津の戦法は“捨てがまり”というもので、数人の小部隊が死ぬまで足止めをして、全滅するとさらに小部隊を残すという、トカゲのしっぽ切りを思わせる壮絶なものであった。むろん、この小部隊はほとんど生き残ることはできない。だが義弘を逃がす為、島津の武名の為、ひるまずに立ち向かい、多くの兵が散っていった。その姿勢が追い風を呼んだか、敵将・井伊直正に重傷を負わせて追撃の速度を緩めさせた隙に、遂に戦場から離脱するに至った。残った兵はわずかに八十ほどだったという。しかも、そこから薩摩行きをするのではなく、大坂城の妻子たちも救出しているのだから驚きだ。その後、島津家は西軍で唯一の本領安堵となった。家康に「島津と事を構えてこじれるは下策」と思わせたのは当然だが、先の戦で死の床にあった井伊直正からも助命嘆願があったことなども影響しているのだろう。こうして生き残った義弘は1619年、83歳で生涯を終えた。

義弘が死を厭わずに戦えた秘訣は何だったのだろう。その答えの一つを思わせる逸話でしめくくろう。朝鮮戦役で、妻にあてた手紙だ。

「もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。だから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、一万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」

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