第13話 文武両道の鬼島津 島津義弘 前編

島津義弘(1535-1619)

戦国時代に九州を席巻した島津四兄弟の二男。祖父から「雄武英略を以て傑出する」と評され、猛将として苛烈な戦いぶりを見せた。後に“鬼島津”と異名をとる。

初陣は1554年、兄弟と共に岩剣城を攻略したのを皮切りに、数々の戦場で活躍する。若い頃の戦場は主に寡兵をもって大軍をしのぐような苦しい立ち回りが多かった。そんな義弘の武名を一挙に轟かせた大勝利が1572年の木崎原の戦いである。ここでは三千の兵をもって攻める伊東義祐軍に対して三百の兵で立ち向かい、八割の兵を失う大激戦だった。義弘は自身の部隊は退却して敵を引き寄せ、側面から伏兵で切り崩す戦法「釣り野伏」で多勢の伊東軍を幾度も撃退し、遂には総大将の伊東祐安を討ち取った。伊東軍は幹部クラスの重臣120人余りと兵700以上を失う大損害を受け、日向(宮崎県)の覇権は伊東家から島津家と移っていった。

その戦いぶりから激しい性格の人物を想像するが、実は人情家で思いやりあふれる逸話も数多く残っている。主従隔てなく兵卒を囲炉裏に招いて一緒に囲んで談笑したり(後の朝鮮戦役での日本軍は多数の凍死者を出したが、島津軍は一人も出さなかった)、家臣に子が生まれると、常に館へ呼んで祝いの席を設け、子を膝に抱きながら「子は宝なり」と直々に祝福してくれるので、人望が大変篤かったという。部下たちに「この大将の為になら」と思わせることが、苛烈な戦いにも人をついてこさせる秘訣だったのであろう。

以降は大友軍を撃退した耳川の戦い、肥後(熊本県)方面の阿蘇氏討伐などで活躍する。その頃には兄・義久に代わって総大将を務めることも多くなり、抜群の武功を挙げ続けて島津の版図を急速に拡大していった。だが九州統一を目前にした1587年、中央を制覇した豊臣秀吉が九州に介入。二十万という大軍で島津を圧迫してきた。義弘は猛将ぶりを発揮し、善戦するも敗北。ただ、この時の戦ぶりを評価されて、秀吉から兄を差し置いて島津当主としての扱いを受けるようになった(これは島津家を分断する狙いもあったと思われる)。しかし、実直な義弘はこうした扱いに舞い上がるようなことをせず、兄より格式ある官位や領土を授けられても「自分は、尊敬する義久の弟である」ことを常に内外に示した。かといって秀吉の厚遇を無にするようなこともせず、厚い礼を返して、時には茶の湯等の文化交流にも力を入れるなど、実に見事な振る舞いで島津と豊臣をつなぐ役目を果たしていった。

こうした義弘の努力もむなしく、家中の反豊臣派の非協力なふるまいが根深かった為に、ある時島津家の大失態を招く。1592年の朝鮮出兵である。この時は義弘に一万の軍役を課されたのだが、家中の反発にあい、遂には反乱にまで発展してしまった(梅北一揆)。これにより待てども待てども渡航の地である名護屋城に国元からの兵は現れず、やむなくわずかな供の五、六人だけを連れて、地元の船屋から小舟を貸してもらって朝鮮へ出航せざるを得なかった。義弘はこの事態を深く恥じ入り「日本一の大遅陣」と詫び状を書いて義久と秀吉に頭を下げた。この惨めな渡海は義弘の胸中に、この屈辱を戦場で果たさんことを強く誓わせたことであろう。朝鮮での戦いぶりは、まさに鬼神の如しであった。

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