第12話 義経の影にされた名将 源範頼
源範頼(1150-1193?)
いつの世でも主人公を輝かせるために物語の演出でより地味に描かれてしまう人物というものはつきものだが、それが高じて無能であったかのように世間に思われる人物というものがいる。範頼はその最たる人物ではないだろうか。
源義朝の六男として、遠江(静岡県)で生まれ育つ。頼朝の弟・義経の兄という立場になる。資料が乏しいため、頼朝と立ち上がったいきさつの詳細は不明だが、はじめから参戦したのではなく、遠江の有力な源氏武将である安田義定と共闘していたようだ。頼朝に合流した最初の記録は1183年とあるから、最初の約三年間は別行動だったということになる。すでに齢30で大軍の統率ぶりに定評もあり、翌1984年の木曽義仲の討伐軍では総大将を務めている。この戦いでも義経の華々しい活躍ばかりが目立つが、それも実は範頼との連携によるものだ。義仲の右腕である今井兼平の軍を引きつけつつ、義仲の退路を読み、封じ込める動きで義経の奇襲をアシスト。これが短期決戦での勝利を呼び込んだのだ。この勝ちパターンは今後の源氏の勝利の方程式ともいえる形で、いわば義経が遊撃隊として奇襲を決め、範頼は軍勢全体をまとめ上げて戦線をつくるという、各々の持ち味を生かした戦い方なのだ。
そして、範頼を無能扱いするきっかけとなる逸話がその直後起きる。討伐後、後白河法皇への謁見の際に、範頼は間に合わずに義経のみが参上したということが起きた。これは範頼の不手際だといわれているが、そうではない。頼朝の指示だ。頼朝は大軍が入京して兵糧不足になるのを防ぐために、入京を禁じていただけなのだ。そもそも、頼朝の指示で兵糧の集まりが不十分なまま出発した軍なので、その頃は不足に陥っていた。そうなると義仲軍が京都でしたように、周辺で狼藉を働くものが多くなって、混乱を招くはずだが範頼の軍はよく統率されていた。そして、無事に補給を受けた後に入京しただけなのだ。
その後は対平家戦で、一の谷の戦いでは義仲戦同様、本軍を率いて義経をフォロー。次いで、平家に味方する西国家人を鎮圧する行軍では、頼朝方の良くも悪くも曲者揃いの重臣たちを率いて(この行軍は義経抜きである)、平家を孤立させることに成功。しかも、京都の食料問題・治安低下を懸念した頼朝の指示で、再び兵糧不足なまま京を出発しての行軍であった。この統率力で無能とされたらあまりにも範頼は浮かばれない。こうして孤立させた平家を義経軍が屋島の戦いで破り、最後は両軍合流して壇ノ浦での勝利を勝ち取った。
しかし、これだけの活躍を見せても最後は頼朝の疑いを受けて、義経同様に殺される運命をたどる。きっかけは、北条政子だといわれる。1193年、頼朝が暗殺されたという誤報を聞いて動揺していた政子に、範頼は「姉上、大丈夫です。それがしがおります」と話したといい、これが範頼の野心の表れであるとして、頼朝は警戒するようになったという。これは、ただの励ましにもとれる言い回しをこじつけたようにも見えるし、もう少し小説的に考えれば、北条家が邪魔者を排除するために讒言したと考えても違和感はない。こうして、別件での濡れ衣を理由に伊豆へ流罪、その後暗殺されて生涯を終えた。
義経という天才のせいで地味な役回りが多い人生だったが、巷でいわれるようにもう少し無能なら、違った幕引きもあったかもしれないと思うと、何が災いするかわからないというものだ。
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