第11話 九州の覇者 島津義久 後編
九州統一まであと一歩のところで秀吉の停戦命令を受けた義久は苦悩する。そして黙殺を選択した。秀吉が九州へ兵を出す前に統一を達成してから、豊臣家への臣従の姿勢を示して九州探題の地位を保証してもらう・・・ここに望みをかけるが、大友軍最後の猛将・高橋紹運の死をかけた抵抗で時間切れとなり秀吉軍と衝突することになった。緒戦の戸次川の戦いでは勝利するも、二十万余りの秀吉の大軍の前には為す術なく、抗戦を主張する家中を抑えて降伏することとなった。以後、義久の戦場は島津家を分裂させ、切り崩そうとする中央政権から島津家を守るための外交戦へと移る。
秀吉は弟の義弘を当主であるかのように扱い、義久を冷遇することで島津の分裂を図る。まず、両者に羽柴の名字を与えて臣従を許すが、義弘には格上の豊臣の本姓まで与え、命令はすべて義弘を窓口とした。さらに島津の本拠・薩摩の領主に義弘を指名し、義久は属国の大隈へ転封された。しかし、この策は空振りに終わる。義弘は兄・義久へ絶大な敬意を内外に示し続けており、島津当主の証となる家宝「御重物」は義久が持ち続け、実権は義久が握っていた。この兄弟はきちんと理性的に互いを認め合い、お家の大事を見失うような人物ではなかったのだ。
秀吉の次の標的は三男の歳久であった。彼は豊臣政権の政務・軍役に消極姿勢な上に、遂には家臣団の多くが秀吉への反乱(梅北一揆)に参加してしまったのだ。その咎で秀吉は歳久の首を要求した。ここでの義久は情に流されない。鬼となって歳久を討ち取り、島津家への火の粉を払いのける。「写し絵に 写しおきても 魂は かえらぬ道や 夢の浮橋」これは義久が弟の死後悼んだ歌だが、この痛切さに兄弟の絆を見たような気がする。
さらに秀吉は家臣団の切り崩しも仕掛けてくる。早くから親豊臣を表明した家老の伊集院忠棟には反豊臣の他の家老達の領土の大半を奪い、八万石という領地を与えた。これは功を奏し、秀吉の死後にお家騒動に発展する。1599年、忠棟を恨んだ島津忠恒が斬殺し、その為、嫡子の伊集院忠真が反旗を翻した(庄内の乱)。
義久は忠真への牽制をしつつも重大な決断を迫られる。1600年の関ケ原の戦いである。
そして、当時京都にて東軍への加勢を拒否された為、弟の義弘は西軍への参戦を決め、義久に援軍を要請した。義弘はわずか千人ほどの兵しかいなかった為、再三要請をかけてきたが、義久は動かない。大局を見ていた義久には見えていたのだろう。忠真への備えを解くわけにはいかなかいことを。西軍の脆さを見抜いてやがて敗れることを。そして、後に徳川と戦う力を温存しないと交渉すらできないことを。はたして、西軍は敗れ、義弘は命からがら薩摩へ戻った。義久は再び鬼となって、義弘に激怒。即座に謹慎を申し渡し、徳川家康に「これは義弘の独断であり、島津家は無関係である」と申し開いた。そして、温存した精強な島津兵の前に、討伐軍はそれ以上進めず膠着する。その上である事件を起こして家康を揺さぶる。幕府の貿易船が薩摩沖で何者かに沈められたのだ。義久が黒幕なのは歴然だ。家康は幕府を開いたばかり、これ以上島津に苦戦を見せれば、何が起きるかわからない。こうして家康は態度を軟化させ、義久の言い分を全て呑んで、一石も減らすことなく完全なる本領安堵で和睦した。これは西軍でただ一つの例外であった。
こうして島津家を守り通した義久は1611年、79歳の生涯を閉じた。彼は徹底して思慮深いリーダーで、曲者揃いの兄弟たち全てに尊敬を受けていた。ただ賢いだけではこうはいくまい。情け深い部分とあわせて尊敬を集めていたのだろう。最後にもう一つ逸話を記そう。義久の狩場は立ち入り禁止となっていたが、権之丞という家臣がこっそり狩りに来ていた。そして、義久らが来たので慌てて退散したが、名前の入った笠を落としてしまった。義久は笠を拾うと、微笑して名前を消した。権之丞はこの恩を強く感じ、義久の死に伴い殉死したという。たとえ戦国の世でなくとも、義久はきっと同じように優秀なリーダーであるのだろうと思う。
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