第10話 九州の覇者 島津義久 前編


島津義久(1533-1611)

島津家十六代当主にして、島津の最盛期を築いた人物だ。島津家はちょっと不思議な家で、彼以外にも優秀な人物を多く輩出していたり、その上結束は強く、戦場でも寡兵で大金星を挙げる逸話が非常に多い。なにか教育に優れた物があるのだろうか、義久も例にもれず英主として名高い。彼の才を祖父の忠良は「総大将たるの材徳」と評した。

義久の大将の資質は若い頃のこんな逸話からも感じられる。四兄弟そろって馬の稽古を終えて馬を眺めていると、三男の歳久が「こうしてみると、馬の毛色はみな母馬に似ています。人間も同じでしょう」と話した。実は四男の家久だけが身分の低い側室の子で、歳もひと回り下であったので、馬鹿にするために言い放ったのだ。これに義久は「一概には言えぬぞ。父に似る馬もいる。人間も同じとは言うが、どう学ぶかで親より優れたり、怠ることで劣ったりするものだ。」と諭した。これを傍で聞いてた家久は感激して武芸・学問に励み、四兄弟の優劣は無くなったという。三男の歳久もまた、くさることなく知略優れる将へと成長させたところを見ると、義久という人は言葉に重みのある人格者だったのだろう。

1566年、薩摩統一にあと一歩に迫ったところで父・貴久から家督を譲り受ける。後を受けて薩摩を統一した二年後、日向の伊藤義祐が三千の兵で攻めてくる。これを武勇の誉れ高い次男の義弘率いる三百で迎え撃つ。この十倍の兵相手に義弘は戦死者を八割も出す大死闘を演じ、見事に撃退する。伊東軍はこの戦で多数の重臣を失い、衰退していくことになる。これを木崎原の戦いという。この勝利を皮切りに周辺の小領主へ次々と調略をかけて伊東家の勢力を切り崩し、日向・大隈の二国を手中に収めた。

この島津の急成長に焦りを感じ、1576年、九州最大の勢力を誇る大友宗麟が伊東家の救援を名目に日向へと侵攻をかけてきた。その軍は三万とも四万ともいわれている。義久もまた二万の軍を率いて日向に入ると、四男・家久が籠る高城の攻略に手こずる大友軍へ奇襲を成功させて、緒戦を制する。その後は耳川を挟んでにらみ合いが続いたが、大友軍は宗麟が後方に引いており、現場の重臣同士は派閥争いの真っ只中にあったので統率の取れてない状態であった。これを見抜いた義久は、退却を装い敵に川を渡らせてから一気に反転する戦法“釣り野伏”を仕掛けた。大友軍は大混乱に陥り、三千の戦死者を出す大敗北を喫した。これを耳川の戦いといい、大友家の衰退の原因となった。この一勝はさらに島津の武名を上げ、肥後方面の領主たちも島津に味方するようになり、南九州をほぼ制覇した。

残る強敵は肥前の熊こと龍造寺隆信だ。両者の雌雄は1584年、沖田畷の戦いで決着する。龍造寺軍は六万ともいわれている大軍だが、島津は対大友の備えもあり、五千の兵しか送れぬ状態であったが、この窮地を四男・家久がひっくり返す。家久は隆信が大軍に奢り、ゆるゆると行進してくるのを知ると、大軍が機能しにくい、道の細い湿地帯に誘い込む策をとる。

そして万全の態勢を整えたところへ隆信はそのまま島津軍の目前に現れ、数を頼みに押しつぶさんと正面突破を仕掛ける。ここでも島津は得意の釣り野伏戦法で龍造寺軍を引き寄せ、大軍の隊列を細く細く引き伸ばしていく。その横っ腹に沼地に潜ませた鉄砲隊が一斉射撃をかける。身動きの取れない龍造寺軍を左右から翻弄しながら崩していき、遂に総大将の隆信を討ち取った。この勝利で九州は小勢力のみとなったので、九州制覇は目前であったが、待ったがかかる。羽柴秀吉が大友の要請に応じ、停戦命令を出してきたのだ。

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