第9話 不屈の若武者 山中鹿之助 後編
月山富田城の落城後、鹿之助は浪人となっておりこの間の足取りははっきりしていないが、おそらく武芸よりも、将としての采配の学びをしていたのではないかと考えられている。そして1569年、僧となっていた尼子勝久を新当主と仰ぎ尼子再興軍を挙兵する。挙兵の噂を聞きつけ、5日のうちに尼子旧臣・三千が集まり新山城を攻略して新たな拠点とした。この勢いをかって、翌月には悲願の月山富田城奪還に向かい、落城寸前に追い込むが隣国で立ち上がった再興軍を救援すべく中断した。合流した再興軍はこの地方の毛利勢を撃破し、これにより、六千の兵と倍増した再興軍は各地を転戦し、遂には旧領の出雲(島根県)を支配するに至った。ここからは毛利軍の反撃にあい勢力を縮小するが、毛利元就が病に倒れ兵を引き上げたために再興軍は息を吹き返す。このように抵抗を続ける再興軍ではあったが、毛利軍が本腰を入れて攻勢を強め始めた1570年、新山城は落城し再興軍は一掃されてしまう。鹿之助は脱出し、予め逃がしていた勝久と合流して次の機会を待つ。
1573年、再興軍は出雲の隣国・因幡(鳥取)にて、かつては敵対していた山名家と連合を組む。山名家もまた、毛利に攻められ本拠地を失ったところであった。再興軍は千の兵で、五千が籠る鳥取城を攻撃。鹿之助の采配により、幾度も別動隊の奇襲を成功させ籠城軍を撃破。山名家の本拠奪還に成功する。幸先よく事が運んだが、わずか3か月後に山名家が毛利に寝返ったために孤立することになる。それでもなおゲリラ戦を展開し抵抗を続けたが、1576年、最後の拠点を失い京都へと撤退した。
これまで逆境続きの鹿之助だったが、遂に最後にして最大のチャンスに恵まれる。京にて、織田信長との面会に成功し、織田軍の下で尼子再興を目指すことになったのだ。このとき信長に「良き男」と称され、「四十里鹿毛」という馬も賜ったことから、かなり気に入られたことが窺える。以降、明智光秀軍に編成されて活躍し、信貴山城攻めでは一騎討ちで勝利するなど大手柄を多数上げ、毛利攻略の為に中国地方へ向かう羽柴秀吉軍に合流を許された。
1578年1月、秀吉は上月城を攻略すると、鹿之助・勝久主従に城代を命じた。ここでの鹿之助は、これまでと一転、外交・調略により周辺の小領主を切り崩す活動を行う。織田家で数々の武将の働きに学んで“戦わずに勝つ”ことを意識したのであろうか、あるいは秀吉の指示か、何れにせよ武勇一遍の男であった鹿之助が何か覚醒したような働きぶりで勢力を広げていった。その間もわずかな守備兵で毛利軍を撃破するなどの槍働きを続け、尼子再興は目前かと思えたが、4月に毛利軍が三万の大軍で上月城を包囲。織田家に臣従していた別所家が反乱を起こし、その討伐に秀吉が釘付けになる隙をついてのことだった。あと一息のところで孤立させられ、兵糧も尽きたために鹿之助主従は降伏。勝久は切腹、鹿之助は殺害され、尼子再興の夢は潰えた。
鹿之助は、その忠義の厚さ・逆境から勝利を勝ち取る将器の大きさを後世に大変評価され、
勝海舟や板垣退助といった偉人から尊敬された。明治時代には、月に七難八苦を祈った逸話と共に教科書に載るほどであった。鹿之助が目指した形とは違うが、結果的に尼子の名を後世に残せたのは鹿之助の手柄の一つと数えても良いのではないだろうか。
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