第8話 不屈の若武者 山中鹿之助 前編
山中鹿之助(1545?-1578)
生涯通じて大勢力の毛利家に挑戦し続けた山陰の武将。生年も家系もハッキリしておらず諸説あるのだが、尼子家の家老という家柄に生まれるものの父が早世したため、貧しい家庭だったという。女手一つで育てられた鹿之助ではあったが武芸に秀でており、10歳の頃には弓・乗馬をマスター、13歳にして敵の首級を上げる見事な武者へと成長した。16歳には毛利方の豪傑・菊池音八を一騎討ちで討ち取る大手柄を上げる。毛利家に押されっぱなしの尼子家はこの若き武将への期待は高く、病弱な兄に代わり家督を相続するよう命じ、この年に山中家の当主となった。早く出世して主家を支えたいと誓う鹿之助は、守り神として信仰する三日月に向かい「天よ、願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と願ったという。試練こそ己を強くするということを、この若さで真摯に認めて向き合う彼の覚悟は胸を熱くするものがある。そして、この言葉はまさに彼の人生を示すこととなる。
1563年、毛利家は尼子家の補給路の要である白鹿城へ攻撃を仕掛ける。既に落ち目の尼子家は見限られ、数々の支城がすでに降伏済みで、初めから負け戦の雰囲気漂う状況であった。鹿之助はこの白鹿城の救援軍として参戦するが奮闘むなしく落城となった。しかし、この合戦において鹿之助は吉川元春・小早川隆景という毛利の名将二人の追撃軍を相手取り、200の手勢で7度撃退するという大活躍で、困難な殿軍を見事に勤め上げた。
1565年5月、毛利家の侵攻は遂に尼子の本拠・月山富田城に及んだ。鹿之助は再び吉川元春軍と相対し、一騎討ちで高野監物を討ち取る武功を上げる。背水の陣で挑む尼子家はこの勢いに乗って毛利家を撃退し、鹿之助の勇名は一挙に広まることとなる。
同年9月、態勢を立て直した毛利が再び月山富田城を襲う。この時、毛利方の品川大膳という力自慢の武将が、勇名馳せる鹿之助を討つべく牙を研いでいた。大膳は戦の前に“鹿”を喰らう“狼”にあやかるべく狼之介と改名・公言し、鹿之助を一騎討ちに誘い込むための伏線をはって出陣してきた。二人の一騎討ちは両軍が対峙する丁度中間の、中州を舞台に火ぶたを切った。始め大膳は得意の弓で鹿之助を狙うが「一騎討ちに飛び道具とは臆病者の所業」と尼子軍になじられる。これを無視して狙い続けたところ、尼子軍は矢を射かけて大膳の弓を破壊してしまう。憤慨する大膳は太刀打ち勝負に持ち込むが、ここでは鹿之助の方が上手であった。粘る大膳に一太刀浴びせるが大膳はまだ粘る。腕力に物を言わせて、取っ組み合いに持ち込んだのだ。お互い上下になって争うが、遂に大膳が上を取り鹿之助を組み伏せる。万事休すかと思われた瞬間、鹿之助の手は脇差しに届き、大膳の脇腹を刺して形勢逆転となった。こうして大膳を討ち取り鹿之助は勝利したが、この一戦、毛利方の記録では乱入した尼子兵が大膳を斬ったとしている。歴史はどうしても書き手の都合がつきものなので、尼子寄りの記録にも同様のことは言えよう。真相は定かではないが、談義の種として記しておく。
この後も毛利の攻撃をしのぐ尼子だったが大勢変わらず、1567年、尼子義久は降伏し、月山富田城は落城した。主君と離れ離れになった鹿之助は、次の舞台“尼子家再興”への苦難の道を歩むことになる。
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