第4話 最後のサムライ 河合継之助 後編

1867年、中央政局が大きく動く。10月に幕府が大政奉還を行い、12月は王政復古を発して幕府が廃止となる。そして1月には戊辰戦争が開戦。新政府軍と旧幕府軍が鳥羽伏見で戦闘を開始した。この合戦で幕府軍が敗北したのを受け、諸藩は決断を迫られることになる。新政府か旧幕府か、一方の手を取り一方を見捨てることがもはや必然とされたこの状況下で、継之助は第三の道「中立」に活路を見出す。最先端の政治を学ぶ継之助は内戦の無益さと、西欧とアメリカが条約の力で相互不干渉を達成できた事実を知っており、こうした武装中立藩の手で両者を調停して次世代の礎を強くするのだと説いたのだ。新政府に媚びる家老たちを説得し(後に恭順派の家老たちは半数以上敵前逃亡している)中立藩論をまとめ上げ、継之助は新政府軍と交渉に向かう。これは後に「小千谷談判」と呼ばれることになる。しかし残念ながら継之助の論旨は、政府軍の新米司令官には理解されることは無く決裂に終わり、長岡藩は3倍以上の兵を有す新政府軍を迎え撃つことになる。

1968年5月、北越戦争が開戦する。序盤は近代化された長岡藩の火力と(日本に3門しかないガトリング砲を2門所有していた)継之助の巧みな用兵の前に、新政府軍は劣勢に立たされ、遂に政府軍の本陣を配備していた榎峠を陥落させるに至った。しかし兵力に勝る点を活かして政府軍は方針転換。別方面から軍を回す作戦に切り替え、裏街道から(全兵力を榎峠に配備していた為)がら空きの長岡城を落城させる。だが、継之助の闘志はこんなものでは挫けない。敗残兵をまとめて2カ月潜伏したのち、それこそ「人の渡れぬ湿地帯」とされていた八丁沖方面からの奇襲を成功させて見事にやり返して見せ、長岡城の奪還に成功したのだ。まさかの敗戦に政府軍は激しく動揺するが、この合戦では継之助も重傷を負い、指揮の取れない状態となり、長岡藩の士気もまた大きく低下してしまっていた。精根尽きた長岡藩は、反撃に耐えれず再び敗走することになる。この逃避行の際、継之助は悔しさを爆発させる句を詠んでいる。「八十里 腰抜け武士の 越す峠」死線をさまよいながらもこれだけの悔しさを口にする姿に、周囲は涙が止まらなかったことだろう。

継之助の容態は悪化し、1か月後危篤状態に。死を悟った継之助は、自分の死後の長岡藩の後事を託す指示を出した後、最後まで尽くしてくれた従者に声をかける。この従者は武士ではなく農民の出で、継之助の人柄に惚れ込み、命がけでついてきた寅太という男だった。

「このいくさがおわれば、さっさと商人になりゃい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はもう、おれが死ねば最後よ」(※司馬遼太郎「峠」より引用)この言葉を胸に寅太は関西の方へ落ちのび、事業家として成功する。後のアサヒビールや阪神電鉄グループの創業者・外山修造である。継之助の見識の高さと人柄が解るエピソードではないだろうか。こうして継之助は42年の生涯を終える。激動の人生であった。

蛇足だが、継之助はじつは長岡では評価が低く「国を戦に巻き込んだ」として、戦犯扱いされて墓を倒されたり、継之助の遺族は差別の憂き目にあっていたという。近年こそ再評価の気運もあり英雄とする向きも出てきたようだが、当事者感情というものはやはり存在しており、一面のみで人の価値を推し量ることの怖さを感じさせる。

歴史は単純ではない。

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