第3話 最後のサムライ 河合継之助 前編
河合継之助(1827-1868)
長岡藩(現在の新潟市・長岡市)の中級武士の長男として生まれ、腕白で負けず嫌いな少年であったらしい。12歳頃には剣術・馬術などの師匠たちと流儀や作法の考えが合わず、自己流を貫いたために厄介払いされた逸話が残る。そんな彼が影響を受けた学問は、数々の幕末の偉人にも影響を与え、知行合一(=知識と実践が一体であるべし)を重んじた「陽明学」であった。そして、23の頃、継之助は藩主の側近であった梛野嘉兵衛の妹・すがと結婚し、人脈も広がることになった。この頃に若手の藩士たちと交流し、議論を重ねて絆を深めて改革派のグループを形成する。このグループは水を漏らさぬ程の結束の固さから、「桶党」と呼ばれていたという。
1852年、秋頃に継之助は江戸へと遊学をする。若者らしく、遊びに学問に好奇心を働かせ、約2年間を過ごすことになる。この頃に佐久間象山から砲術を学んだのだが、仲間には「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないことがある」と語ったという。二人の性格や人物像を考えるうえで興味深いエピソードだ。また、この時期は継之助の思想に大きく影響を与えたと思われる書物とも出会っている。「李忠定公集」という本で、中国の南宋時代(1127-1279)の政治家・李忠定の上奏した議論をまとめたものだ。当時の中国は北部を異民族に奪われて南半分に追いやられており、李忠定は主戦派として策を練り、南宋を建国させた立役者だ。継之助には南宋が、西洋と対峙する幕末日本の姿と重なって見えたのかもしれない。継之助はこの本に入れ込み、自ら写本を行い、題字を佐久間象山に書いてもらって長岡藩へ持ち帰っている。
継之助は江戸在留中に藩主への意見書が評価されて、30石を加増された。そして帰藩し藩政に参画するよう命じられるのだが、この役を2カ月で辞することになる。抜擢された継之助を快く思わない藩上層部の風当たりが強く、衝突が絶えなかったためだ。憤慨する継之助は門閥弾劾の建言書を藩主へ提出し、政治から距離を置いた。そして、1859年に再び江戸へ遊学するが、このときに感銘を受けた備中松山藩(岡山県)の山田方谷に教えを請うべく、西国へと向かう。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度に出ていた継之助も山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀、長崎、熊本も訪れ、見聞を広め、翌年3月長岡へ帰郷した。
その後、藩主・牧野忠恭が京都所司代を務める際に側近として仕えて信頼を得て、1865年に再度藩政の指揮を取るべく要職である郡奉行に就き、ここで藩の改革を一気に進める。家老たちが養っていた部下たちを藩の直臣に変えて、家老を減給。そして藩士の給与を平均化させて派閥の力を弱め、中央集権化を目指した。また、従来の槍・刀を排除し、軍装を最新のフランス式に改めた。膨らむ軍事費を賄うべく、農政改革や灌漑事業も展開して、1年で9万両を超える蓄財に成功する。こうして長岡藩を小藩ながら高い戦闘力を持つ組織へと変革させたのだ。
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