第8話 石神井公園

 庭野は、自宅近所にある公衆電話の周りをウロウロと周回していた。

 楓に電話しようかどうか悩んでいるのである。自宅から電話をかけようとしたが、家には母も弟もいて、話を聞かれたくなかった。

 庭野が働く食品工場は、勤務はシフト制だった。だから日曜の今日がたまたま休みになったのは、神様が楓に会うように仕向けてくれたような気がしてならなかった。

 思い切って、庭野は公衆電話の扉を開けた。そして小銭を投入すると、楓の携帯番号が書かれたメモを片手に、ダイヤルを押し始めた。

 6コール目で、「もしもし?」と警戒したような声で楓が出た。普段、あまり公衆電話から電話がかかってくることがないのだろう。


「も、もしもし、庭野です」


 庭野は、楓の反応が怖かった。アドレス交換したとはいえ、楓からは電話がかかってくることはなかったからだ。


「庭野くん?どうして公衆電話からなの?」


「家からだと、家族がいるからゆっくり話せないと思ったんだ」

庭野は楓の返答を待たず、話を続けた。


「楓ちゃん、今日仕事は休み?俺、久々に日曜日が休みなんだ。もし良かったら、一緒にどこか行かないかな、と思って」


 少しの間、沈黙が流れた。庭野には永遠にも感じる沈黙だった。きっと、断る口実を考えているのだな、と庭野は思い、落ち込む気持ちを抑えて言った。


「あ、別に用があるならいいよ。突然電話してごめんね。じゃあ」


と、受話器を置こうとした瞬間、「待って!」と楓の声が響いた。庭野は慌てて受話器を耳に当てた。


「私、ボートに乗りたい」


 楓が言った言葉を、庭野はすぐ理解できず、「うちは貧乏だから、ボートなんて、持ってないよ」と慌てて言った。すると楓は笑いながら言った。


「庭野くんが貧乏なのは知ってる。石神井公園に、ボートが乗れる大きな池があるじゃない。私、ボートに乗ってみたいわ」


 庭野は自分の勘違いに苦笑した。そして楓と待ち合わせの場所を決めると、軽快な足取りで電車の駅に向かって行った。



 池に浮かぶボートを、風が揺らしていた。庭野と楓は向かい合って手漕ぎのボートに乗っていた。

 楓はボートに乗るのが初めてだったようだが、庭野もオールを使うボートに乗るのは初めてだった。操る自信は無かったが、まさか、スワンボートに乗ろうなどと、かっこ悪いことは言えなかった。

 

「庭野くん、見て。カルガモがたくさんいるわ」


 庭野はそれどころじゃなかった。ボートが思い通りの方向に進まないのである。どういうわけか、同じ場所をぐるぐる回っているようだった。


(左右のオールを、同じ動きで漕がないと、まっすぐ進めないのか。無事にボート置き場まで帰れるかな)


 そう思いながら、庭野は汗だくでボートを漕いでいた。すると、楓が言った。


「庭野くん、少し休みましょう。私、ボートで食べようと思って、お菓子持ってきたの」


と、手提げバックの中から、スナック菓子を取り出した。


「それなら、カルガモたちにも分けてあげられるね」と庭野が微笑んだ。


 楓がお菓子の袋を開け、庭野に「どうぞ」と言って差し出した。庭野は受け取ろうと手を伸ばした。その瞬間。

 庭野は体の重心を傾けすぎてしまった。ボートは激しく揺れ、楓は小さく悲鳴をあげた。庭野は、スナック菓子を持ったまま、池にドボンと落ちた。


「庭野くん!庭野くん!」

 

 楓が半べそをかきながら、池に沈んだ庭野の名前を叫んだ。すると、立ち泳ぎで庭野が水面から顔を出した。

 辺り一面に散らばったスナック菓子を、親子のカルガモが寄ってきて、ついばみ始めた。それを見たびしょ濡れの庭野が、


「おいおい、俺、一口も食べてないよー?」


と、おどけて言った。楓は思わず吹き出してしまった。



 石神井公園から楓が暮らすアパートまでは、電車で一区間だったので、庭野は楓の家で服を乾かしてもらうことにした。びしょ濡れのまま、自宅まで何区間も電車を乗り継いで帰すのは忍びない、と楓が言った。


 楓のアパートは3階建てのワンルームだった。ベッドと、鏡台と、部屋の中央の小さいテーブルが置いてあり、ベッドの下に収納ボックスが見えた。

「暖房をつけて乾かすから、それまでこれを着ていて」と、楓は脱衣所からバスローブを持ってきて庭野に渡した。

 楓は庭野の濡れた服を、エアコンの風が当たる場所に干し始めた。

 庭野はバスローブに身を包んだ。いつも風呂上りに楓がこのバスローブを使っているのかな、と想像すると、庭野の股間がムラムラと反応し始めた。しかし、まったく汚れを感じさせない、まるで男を知らない純粋な少女のような楓に、手を出すのは躊躇われた。庭野は、必死で股間のジュニアに鎮まるように言い聞かせた。


「暖房だから、お部屋の中が暑くなると思うけど、少しの間我慢してね」


 楓はそう言うと、冷蔵庫から麦茶を出し、ベッドに腰かけている庭野に手渡した。

 麦茶を差し出した楓の白い手を見たとき、庭野の我慢の糸が切れた。楓の手首をおもむろに掴んだ。麦茶の入ったグラスが床に落ちた。庭野は楓の腕をぐいっと引っ張って、ベッドに押し倒した。そして、自分は着ていたバスローブを脱ぎ捨てた。

 楓は無抵抗だった。庭野は無我夢中で、楓の乳房を服の上からまさぐると、キスをしようとして顔を近づけた。そして、急にはっと気づいた。楓が、涙を流している。

 庭野は慌てて楓から身を離した。楓は無表情で涙を流していた。庭野は謝ろうと口を開きかけたとき、楓が言った。


「庭野くんも、ただの男だったのね」


 そして、「帰って」と一言だけ呟くと、枕に顔を埋めて肩を震わせていた。

 庭野は、干してある生乾きの自分の服を着ると、玄関の扉を開けた。去り際に、


「楓ちゃん、ごめん、ごめんなさい」


と言い残して、ドアを閉めた。


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