第19話 光

 翌朝、マリーは家族の誰よりも早く眼が覚めた。着替えて雄吾が起きるのを待っていたが、いつもの時間を過ぎたので部屋まで呼びに行った。

「ユーゴ、ユーゴ! も~」

 ドアノブを探ろうとしたところで、マリーはある思いに駆られた。そしてその気持ちに従うことにした。


 靴を履いて家の前まで出ることは、それこそ眼をつむっていてもできる。そこから先に進むのも、まだ薄暗い今の時間帯なら、ゴーグルの遮光度を上げずに済むので大丈夫。

 そう、大丈夫、と胸の中で繰り返しながら、マリーは路地の先を見つめた。

 ひゅるりと風が渡ってきて顔にぶつかった。


 道の両側に生活の灯をともしはじめた家々が並び、頭上に雲は多いが雨の気配はない夜明けの空が広がっているのを感覚した。

 だが、その光景をマリーの破れた網膜が実際に受け止めたわけではない。

 それはマリーが晴眼者だった頃にたくわえた記憶と今朝の気象予報とを脳がとりまとめ、視界を補うためにこしらえた仮初の像なのだ。


 そうした「見えているように見える景色」を当てにして動きまわるのはよしたほうがいいと館山医師は言う。だから事故のあとのマリーはどこに行くのも家族や友人といっしょだった。

 危険を知らせてくれる誰かがいれば二人三脚をせずに歩けるくらいには自分の空間認知への信頼は残っていた。


 今日は、そのレベルを一段引き上げる挑戦をする。

 誰にも面倒をみてもらわずに、ひとりで坂道を上り、高台の公園まで行く。

 それくらいできなくて、どうしてグラウンドに戻ることができるだろう。

 マリーはスマートフォンに親指を押し当て、その指紋に対応したコントロールアプリが立ち上がると、音声操作でゴーグルをガイド・モードに設定した。

「前方に障害物はありません」ヘルパーAIの無機質な女声が骨伝導イヤホンから伝わった。「身体の向きをそのままにして進んでください」


 一歩、また一歩と道を踏みしめる。

 ひんやりとした空気を掻き分けるように進むうち、マリーは自分が水の中を泳ぐ魚になった気がした。

 でももしこんな魚がいたら、群れに置いていかれてしまうだろうとも思った。

 ヘルパーAIが人や車や自転車の接近を知らせるたび、足がすくんでしまう自分に腹が立つ。

 そして無慈悲な太陽は、マリーの歩みを追い越していったようだ。


「グレアが設定レベルを超えました」ヘルパーAIがついに言った。「完全遮光します。歩行をやめてください」

 目の前が真っ暗になった。

 歩行をやめてください、とAIが繰り返している。

「ルートをはずれています。身体の向きを変え――」

 ゴーグルのボタンを押して電源を切り、おせっかいなAIの声を追いやる。

 手を伸ばして探り当てた塀によりかかり、頬を垂れる汗を拭いながら息を整える。


「大丈夫ですか?」

 女性の声がして、マリーは顔を上げた。

「ダイジョブデス!」びしっと敬礼をして見せる。

「そっちは塀ですよ」

 苦笑を含んだその声をよく聞けば、相手はななめうしろにいるようだ。赤面したマリーが振り向くと、さっきより近くで女性の声が聞こえた。

「ジョギングですか?」

 バベル言語だ――人類の誰とでもダブルプレーを決められる魔法のボール。その扱い方を彼女はとてもよく心得ているようだった。その声は熟練の内野手の送球に似て、受け手をまごつかせないやさしい響きがあった。


「はい」とマリーも同じ言語で答えた。「この先の公園に行こうと思って」

「あなたひとりで?」

 どきっとした。

 盲の子どもがひとりで出歩いているとわかったら、この人はどうするだろう。

 家まで送りましょうとか、ご両親は何を考えてらっしゃるのとか言われたら困る。

「ええと……」

 マリーはすぐに返事できなかった。

 バベル言語は話し手の言いたいことだけでなく、感情までも率直に伝わる――動揺でさえも――なのでうかつに声を出せない。


 ところが、女性は思いがけない提案をしてきた。

「よかったら、いっしょに行きましょうか」

「え?」

「わたくしも運動中なんですよ」

 マリーの頭に、ランニングウェアを着た若い女性のイメージが結ばれた。

「でもわたし、遅いから……」

「そんなことはないでしょう」と彼女は言った。「あなたが二年前のカナディアンカップで見せた十個の盗塁を、わたくしはおぼえていますよ」


 マリーは声も出ないほど驚き、

「どうして、それを?」とようやく訊いた。

「その返事は、この坂を上りきってからにしましょう」

 行きますよ、と言った女性の声はすでに走り出していた。

 慌ててマリーもあとに続く。


「もっと速く!」

 女性の声は思ったよりも先のほうから聞こえた。

 これ以上距離をあけられたくない。マリーは足を強く前に出した。

「その調子です」

 はっきり届く女性の声で、彼女の位置と進むべき方角がわかった。自分がガイドAIなしで走っていることにはあとで気がついた。

 日差しがパーカの上からでも肌をつつき、太陽がじりじりと追いかけてきているような感覚がある。熱々のオレンジジュースのような陽光がそこらじゅうに満ちているのがこの眼に見えるようだ。


「あと十七メートルで止まりますよ」

 十七メートル。パールボールのバッテリィ間とほとんど同じ距離だ。

 マリーはピッチャーのもとに向かうときのことを思い出した。それはたいていピンチの場面なので、ピッチャーを落ち着かせつつ審判に遅延行為をとられないような小走りをいつも心がけていた。

 その経験がはじめてダイヤモンドの外で活きた。

 速度を充分にゆるめ、息を整えていると、再びあの女性の声がした。

「十時の方角、七歩で階段に突き当たります。手を貸しましょうか?」

 マリーは首を振った。

「ではお先に」


 女性の足音が消えていった方角にマリーは歩を進めた。

 六歩のところで立ち止まってしゃがみ、手を伸ばして階段の形と段差を確かめた。

 最初は四つ足で上り、少しして立ち上がった。

 歩く速さでアンダンテだんだん速くクレッシェンド、そして踏み出しが全力フォルティッシモになりかけたとき、段差に蹴つまずいた。

 体重を受け止めた掌がじんじんと痛み、驚いた心臓が外に飛び出そうと騒いで、ちょっとその場から動けなくなった。


 そばに人の気配が立った。

「あと九段で上に着きます。さて、どうしますか?」

 マリーは歯を食いしばって立ち上がった。

 一段上って勢いをつけると、あとは段飛ばしで駆け上がり、ついに頂上にたどり着いた。

 荒い息のままマリーは背後に振り返った。風がうねって前髪をはね上げた。

 

 どこかに太陽が出ているはずだ。そいつをにらみつける。

 正確な位置などわからなくていい。どこにでもあるからだ、このいまいましい光というやつは。

 マリーは上下する胸の動きに任せて、思いつく限り最も口汚い言葉を叫んだ。


「元気が有り余っているようですね」

 その声のするほうにマリーは身体を向けた。

「わたしのこと、知ってるんですか?」

「それなりには」と相手は言って、少し観察するような間があった。「しかし、わたくしの知らないことがあなたに起こったようですね」


 ベンチに座り、マリーはここ数か月のあいだに起こった事を話した。

 治ったと思っていた眼が突然パンクしてしまったこと。それは最新の医学でも太刀打ちできないこと。

 この症状に関する研究を今年の学会ではじめて発表したアルゼンチンの医師がいて、館山夫妻が連絡をとって共同で治療法を模索していることも話した。


「なるほど」女性は静かにうなずいたようだった。「皮肉なものですね、あなたのように眼の良いバッターが……」

「でもわたし、諦めてない。センセイたちが治す方法を見つけてくれたら、すぐにでも競技に戻るんです。それが、たとえ」

 その先は風にさらわれてしまったように言葉がなくなった。


「今あなたが持っている眼。それを取り替えないのはなぜです?」女性はおもむろに訊いた。「そのままでは日常生活も不便でしょう」

「新しい眼がどれだけつか、わからないんですもの」マリーは自分の口調が硬くなるのを感じた。「いつかは取り換えをするでしょうけど、今はその時期じゃないんです」

「ご両親も同じ意見ですか?」

「ノン。ふたりとも、すぐにでも手術しようって――」

 しばしの沈黙のあと、ベンチの上に置いた左手にカードのようなものが触れた。

「名刺を渡しておきます」女性はそう言って、立ち上がったようだ。「あなたに覚悟があれば、もう一度会えるでしょう」

 気配が遠ざかり、びゅうと吹いた風とともに足音も聞こえなくなった。


 マリーはもらった名刺に凹凸があることに気づいた。点字だ。

 おぼえたてだが、少しならわかる。

 点が三つ、ひとつ、斜めにふたつ――

「フェア……ライン……」

 女性の名前も記されているようだが、うまく読めない。

 ゴーグルに読んでもらおうと思い、ボタンを押した途端、AIが反応した。


 企業や団体の関係者の名刺には、よくPR用の仮相タグが入っている。それはたいてい空中に浮かび上がるロゴマークとともに自らの素性を明らかにする。こんな具合に。

「〈フェアライン〉――機械化アスリート支援団体です」

 マリーは眼を見開いた。

「機械化……」

 立ち上がり、あの女性が去っていった方角に眼を向ける。その先にぼんやりと何かが見えるようだった。

 明るいがまぶしくはない、でもずっと見つめるのはためらわれる、そんな何かが。

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