第18話 アイドル球団でアルバイト

 放課後のチャイムが鳴った。

 ほとんどの生徒はまだ座ったまま、おしゃべりの合間に帰り支度をしている。

 そんなクラスメイトたちを横目に、雄吾はそっと席を立ち、急いで教室を出た。


「おう、雄吾」

 ぎくりと足を止め、振り返る。

 廊下の反対側から栗田がやってきた。

「なん変な顔しよん?」

「いや別に、何でもないって」

 雄吾の空笑いに栗田は片眉を上げた。

「久しぶりにゲーセン行こうや」

「いやっ、今日はちょっと……」

 視線をボールゾーンに散らばせたあとで、「ごめん!」と言って走り出した。「また今度な!」


 栗田は呆気にとられた顔をしていただろう。けれど、もしあとで事情を聞かれても説明できない。

 自分でも明確にできない理由から、雄吾はこれから向かう場所を秘密にしておきたかった。


 北九州サンフラワーズの本拠地球場、サニーグラウンズ。

 二十世紀半ばに建てられたこの歴史ある球場は、三塁側以外の三方を集合住宅やビルに囲まれ、球場前の交差点を挟んだ斜向かいには、三萩野公園の緑地帯が広がる。

 緑地帯の奥には、競輪場跡地を利用した芝生広場がある。

 マリーが自由な光を失ったあの場所だ。


 学校から球場に向かう際には公園の横を通る必要があり、雄吾は数か月ぶりにあの木を眼にした。

 木陰の中を小さな子どもが走りまわり、すぐそばのベンチで女性が仮相書籍を読んでいる。

 その光景を見たままの穏やかなものとして受け取ることができた自分にほっとした。

 もしかしたら、ここを訪れるたびにおぞましさを感じてしまうかもしれないと不安で、ずっと足が遠のいていたのだ。


 球場の様子を見るのも久しぶりだが、近くまで来て驚いた。

 工事をしている。それもけっこう大がかりなもののようだ。

 道端に立ち止まって見ている人がちらほらといる。

 ひとりの老人がため息をもらした。「市民球場の面影がどんどんなくなっていきよる。ああ悲しい悲しい」

「この工事、市が費用持つっち話ぞ」とこちらは不満そうに話す夫婦。「一部の人らのために何でそんなことするんやろね」


 作業マシンや監視ドローンが集まっているのはレフト側だった。レフトスタンドが取り壊されて跡形もなくなり、スタンドの外壁を囲んでいたひまわりも根こそぎ取り去られていた。

 球場とマンションのあいだの小路に入り、センターの方角に進んでいく。工事現場を仕切る柵の向こうに仮設の現場事務所があった。

 さらに進むと、右手に門が見えてきた。ちょうど球場の真裏にあるので、裏門といえばいいだろうか。

 背の低い門柱と緑色の格子扉の前に、ハィンが立っていた。彼女は雄吾に気づくとにこっと笑った。


 ハィンは通用口を開け、雄吾を敷地の中に招き入れた。

 開けたスペースがまず眼に入り、隅のほうに車やバイクや自転車が停められているのが見えた。

 おそらく門司の港を意識したのだろう、ガス灯が並んだ通り道があり、小さい倉庫のような平屋がそこかしこに寝そべっている。

 そこは厳密にいえば球場の中ではなく、外だった。何十メートルか向こうにスタンドの外壁があり、バックスクリーンが背中を見せている。

 その手前に三階建ての建物があり、ハィンはそこに向かって歩いていく。

「突然のオファーで驚いたでしょう?」

「いえ、そんな、オファーだなんて大げさな……」

 雄吾は苦笑したが、目指す建物に下がった垂れ幕を見て、考えを改めた。


【GO! SUN-FLOWERS!】

 文字の背景に、揺れるひまわりのモーションイラストが描かれている。

 よく見ると、ガス灯の下や平屋の軒先にも、球団ロゴが記された三角旗がいくつも翻っている。

 本物のプロ球団と、その球団事務所が目の前にある。その中に入っていく。

 外階段を一段上がるたび、雄吾の緊張と興奮はいやおうなしに高まった。


 二階の出入口まで来たとき、上階から人がおりてきた。

 現れたのは四十がらみのこわそうな男の人だった。ワイシャツの首元からシルバーネックレスがのぞき、手首に高そうなアンティーク腕時計が光っている。

「ん?」とこちらに気づいた。「おい、ハィン」

「あら、カームラさん」

「その小僧は何だ?」

 不審そうににらまれて、雄吾は思わず姿勢を正した。

「新しいお手伝いさんですよ」とハィンは言った。

「ほう……いつ採用になった?」

「十分後ですよ。今からGMに紹介します」


「その必要はない」と男は言った。「こいつは不採用だ」

「え、どうして?」

 ハィンは、ちょっとなぞなぞをかけられたような、軽い感じで首を捻った。

「こんなちびっころが、球団の荒くれ仕事をこなせるわけなかろう!」

「そんなのわからないではないですか」


 ああだこうだと言い合うふたりに、階段の下から誰かが声をかけた。

「どうしたんだ、河村」

 振り向いた雄吾は眼をみはった。

「大下さん?!」


 向こうも驚いていたが、やがてくしゃっと相好を崩した。

「はは、こいつはどうして」と言って、大下は階段を上がってきた。

「おい」河村と呼ばれた男は訝るようにハィンに耳打ちした。「もう大下さんに面通ししたのか?」

「彼は僕の友だちなんだ」と大下は言った。

「ともだちぃ?」

「ははは、そうなんだよ。しかしこんなところで会うとはね。君は|サンズ(うち)のファンだったのか?」


 雄吾は一気にうろたえた。「いいいや、そういうわけじゃ……」

「ワタシが、です」とハィンは得意げに言った。「人手不足だと聞いたので。彼のお母さんとはお友だちなんですよ」

「そいつはいい」

「大下さん」河村が慌てた様子で言った。「まさか、こいつを雇うつもりですか」

「もちろんだよ」と大下は言って、雄吾の背中に手をまわした。「さぁて、まずはユニホームをあげような。寸法を測ろう」

「俺、選手じゃないですよ」と雄吾は一応言っておいた。

「ははは、わかってるよ」

「大下さん!」河村がうしろから追ってきた。「せめて人事を通してください!」


 雄吾はデスクスペースの一角にあるガラス戸で区切られた小部屋に通され、仮相体の面接官AIと対面し、簡単な履歴書をもとにやりとりを交わした。

 そのあとはボールを取り上げられたバッテリィのようにすることがなくなってしまい、小部屋の外のデスクで仕事をしているスタッフたちの姿をぼんやり眺めていた。

 そのうちにハィンがやってきて、ポロシャツとチノパンを雄吾に手渡した。

 ポロシャツの色は緑で、胸のところにチームロゴがあしらわれていた。そして左腕のところになぜか「一騎当千」と刺繍されていた。

 それを自前の黒い長袖Tシャツの上から着て更衣室を出た。


「似合っていますね」戻った雄吾を見て、ハィンはにこっと笑った。

「この刺繍、ハィンさんが?」

「ええ。ワタシはサンフラワーズのチーフスタイリストですから」

「スタイリスト?」

「イエス。サンフラワーズは、パールボールとアイドルのチームです。だから、組織の中に球団部と芸能部があるのです」

「じゃあ、ハィンさんは芸能部?」

「そうですね。でも、球団部のマーチャンダイジングにも関わっています。オフィスにいる人はあまりセクションの違いがありませんね。みんな、できることはなんでもやりますよ」

 なにせ人手不足ですから、とハィンは付け足した。


 うおっほんと咳払いが聞こえた。横にさっきの強面が立っていた。

「俺の顔はおぼえたか?」

 雄吾はうなずいた。

「アシスタントGMの河村といったら俺のことだ。この球団のナンバー3だ。本来ならきさまのような丁稚でっちにかまけている暇などないのだが、大下さんに任されたことはいやでも全うするのが俺だ。ほれ」

 河村はぼろの布切れを放ってよこした。よく見ると軍手だ。


「まずは園芸課を手伝ってこい。堆肥まみれになってくるがいい」

「あの……」

「何だ」

「今日ってチームの練習は――」

「なーい!」

 河村はその質問を待ってましたといわんばかりで、顔じゅうに笑いが洩れていた。

「しばらくはだあれも来んぞ! 選手に会えるなんて思うなよ。わはは! 辞めたくなったらいつでも言え」

 ぽかんとしている雄吾を置いて、河村は行ってしまった。




 一塁側の外縁に広がるひまわり庭園。

 河村が様子を見に行くと、新入りは園芸主任ランドスケーパーの指示を受けて堆肥袋を運んでいた。

 ひとしきり見物してからアシスタントGMは事務所に戻った。

「小僧め、ひいこら言っとったわ」

 スタッフたちは一様に苦笑を返した。

 河村は隅のデスクに座る男に近づいた。

「どうだ鍋島、できたか」

 端末眼鏡をかけた河村は、鍋島と呼ばれたスタッフが作業している仮相ウィンドウをのぞきこんだ。


「……一回、観戦履歴がありますね」と鍋島はぼそぼそと言った。

「やっぱりそうか!」と河村は腕を振った。「にわかヲタめ。運営にもぐり込めばアイドルと接点が持てると思ったか。そうは問屋がおろさんぞ」

「これだから簡単にヒト増やせないんすよね」と別のスタッフが笑って言った。

「まったくだ」

 そこで鍋島が何か言った。でも、と言ったようだ。


「あん?」

「……彼、マーケティング上はM2に分類されますよ」

 競技そのものに興味があり、スタッツ解析などデータも多量にほしがる一方、選手との接触やグッズには食指が動きそうにない。

 そういう客のことを、球団内のカテゴリー分けではM2としている。

「あんまりアイドルには興味ないみたいです」

 河村はいまいましそうにうめき、「たった一回の観戦データで何がわかる」と言ってのしのしと立ち去った。



         ◇



「日本のパールボールはユニークだね」 

 サンフラワーズ発行のブックレットを見ながら、ヴィクトルは大いに興味をそそられたようだった。

「選手はパールボールのほかにゲイシャの訓練もするようだ。それにユース世代への期待がすごいね。下部組織がこんなに取り沙汰されるのは珍しい」


 雄吾はうなずいた。「サンフラワーズは球場もすごいよ。今度リニューアルするんだ」

「是非お目にかかりたいな。オーシタさんにも挨拶せねば。球団の上役なんだって?」

「うん。ジェネラル・マネージャー。でもMLBのGMみたいに選手を集めたり、ダグアウトの中のことに関わったりはしないんだ。球団商売が僕の仕事だ、って大下さん言ってたよ」

「CEOに近いのかな。しかし、あのオーシタさんが経営とは」

 ふたりは顔を見合わせた。笑いをこらえようとしたができなかった。


 家の戸を開けっぱなしにして、いつでも誰でも飲み食いしたり遊んだりできるよう、コックロボットやゲーム機を用意している大下。

 ワルガキに落書きされた自宅の塀を「すごい才能だ!」のコメントを添えて画像共有網にアップする大下。

 移動販売のクレープ屋を見つけ、雄吾とマリーに「奢ろう」と言い出し、いっしょに並んでいた赤の他人の分まで代金を払ってしまった大下。

 そういう姿ばかりを見てきた延長線上に、帳簿とにらめっこしてきちきちっと収支を成り立たせるような大下の姿を透視することなど、いったい誰にできたろうか。


「それでさ――」

 雄吾は口を閉じて振り向いた。

 帰宅した朱里江がリビングに現れた。

「なんだ、母さんか」

「なんだとは何よ。わたしじゃ都合悪いわけ?」

「その逆だよ」と雄吾は言った。「マリーだったら、どうしようかと思った」

「どういうこと?」

「マリーには、こういう話は聞かせないほうがいいんだ」


 朱里絵は眉根を寄せた。「雄吾、前も言ったけど、その見方は間違ってるわよ」

「どこがだよ? マリーは毎週観ていたカナディアン・リーグの試合をちっとも観なくなったじゃないか。クラブチームの子とも全然会おうとしないし」

「テレビを観ないのは、眼に負担をかけないようにしているだけよ。試合結果はチェックしてるし、友だちとも連絡をとってるわ。マリーは何も変わってないのよ」

「そういうふうに見せてるだけだよ。母さんにはわからないんだ」

「わかってないのはどっちよ」


「まぁまぁ」とヴィクトルがあいだに入った。「ふたりとも、マリーをとても心配してくれている。私もあの子もそれはよくわかっているよ。それで充分じゃないか、そうだろ?」

 雄吾と朱里絵はうつむいた。ヴィクトルに諫められるのは何度目になるだろうか。

「ごめん」と雄吾は言った。

 朱里絵は何も言わず、手を伸ばして雄吾のうなじの下を撫でた。



 家の奥の暗がりでマリーはじっとしていた。家族の声が聞こえなくなると、彼女はおりてきたばかりの階段を静かにのぼり、部屋に戻っていった。


 ドアを閉めたあと、そこでしばらくうつむいていたが、やがてゴーグルをはずし、暗い部屋の中に振り向いた。

 棚や椅子を手掛かりにしながら、壁に立てかけられているバットを探った。

 グリップをつかみそこねて、フローリングの床にコッとくぐもった音がした。

 バットは月明かりの差す向こう側にするすると転がっていった。


 マリーは床に膝をつき、右手をうんと伸ばした。

 薄闇から伸びた腕が、月光の中に入り込んで白く浮かび上がる。

 しかしマリーはそれ以上進まなかった。

 光に浸されるすんでのところで睫毛が震えていた。


 伸ばした手はいつまでも宙をさまよい、次第に動きを止め、薄闇の中に引き戻されていった。

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