4th inning

第20話 ショパンに相談

「ふわ……」

 朱里絵があくびをしながら廊下に出ると、バッグを背負った息子が通りがかった。

「あら、休みなのに早いわね」

「バイトなんだよ」と雄吾はため息混じりに答えた。「今日こそマリーに付き合えると思ったのに……」

「あはは! もう散々言われてるじゃない、これからは友だちと行くからって。あきらめなさいよ」

 雄吾は無言で口を尖らせた。

 そのとき、上階からかすかな振動が伝わってきて、親子は顔を上げた。

「早起きさんがもうひとり……」


 二階のピアノ部屋の中、鍵盤を叩きつけるような強い調子が響いている。

 ショパンのスケルツォ第三番。

 この冗談みたいに深刻な『冗談スケルツォ』を、マリーは一心不乱に弾き鳴らしていた。

 しかし、その演奏は不意に中断した。


「どうしたの?」

 ビッキーは閉じていた眼を片方だけ開け、眉を吊り上げた。

 重像機レイヤーによって投影された仮相体である彼女の身体は、薄暗い部屋の中でもくっきりと浮かび上がっている。

「さっきから同じところで止まっているわよ」

「うまくいかないから」とマリーは言った。「ここをきちんとしないと先へ進めないの」

「あたしには堂々巡りに見えるけれどね」


 マリーは何も答えず、ゴーグルをはずして振り向いた。

「ビッキー」

「あたしはこっち」

 ビッキーの声は重像機レイヤーのスピーカーから出ていたが、仮相体は別の場所にいる。声を頼りにしては居場所がわからない。

 マリーは鍵盤の上に視線を落とした。


「ビッキーは、身体に機械をいれることについて、どう思う?」

「いいんじゃないかしら。脇に消臭チップをいれるの? カリフォルニアこっちでなら保険がきくわよ」

「そういうのじゃなくて、身体の一部をそっくり機械にするの」

「サイボーグになるってこと?」ビッキーは眉をひそめた。「そうねえ、あんまりぞっとしないかしら」

「どうして?」

「こわい話ばかり聞くもの。機械が身体にあわなかったら悲惨らしいわ。生身の部分が腐っちゃうのよ。指一本の機械化で、肘から先を切るはめになったってひともいる」

「それ、三十年も前の事件よ。無免許の医師だったの。今は管理体制がずっと厳しくなってるし、そんなこと起こりようがない」


「詳しいのね?」

 マリーはゴーグルをかけなおした。

「何年か前に、病院で機械化を勧められたの。それでパパはいろいろ調べてくれた。だけど……」

「やめようって?」

 マリーはうなずいた。

「無理ないわ。リスクに見合わないもの。自分の身体を何度でも再生できる時代に、わざわざ工場の世話になる必要ないし」

「でも、わたしの眼は……再生治療じゃ治らない」

 そう言ってマリーは唇を噛んだ。


「パパが、わたしのことを考えてくれてるのはわかるわ。センセイたちだって、なんとかしようとしてくれてる。でも……」

 ビッキーはふーっと息を吐いた。「ダ・カーポね」

「行ってくるよ!」階下から雄吾のやけっぱちな声が聞こえてきた。



         ◇



 九月最後の土曜日であるこの日、一軍登録されていない北九州市在住の選手たちが福岡市に遠征するため、出発準備を手伝えと雄吾は言われていた。

 実は前日の出勤でもその作業をしたのだが、人が少なくて全部終わらなかったのだ。


 改修工事のために球場が開かなくなってからというもの、試合の日にしか出番のないバイトスタッフのほとんどは別の職場のシフトを入れてしまっている。

 正規の職員はほかの業務に追われていて、だからこそ試合のない週末の二連休が彼らには必要だ。

 そういうわけで、今日の仕事は都合のつく人だけでやるという話だった。

 それで何人集まるのか知らないが、案外いいかげんなものだなと雄吾は思った。


 事務所の更衣室で着換え、各部署のデスクが並んだところに行くと、ちょっとした人だかりができていた。

 グラウンドキーパーや、客席係や、チームストアの店員――要は雄吾と同じくバイトの男女――が事務所の一隅にあるスクリーンの前に集まっていた。

「おーし、ナイスゲッツー!」

「西内完投かぁ」

「さっすがエース」


 朝のローカル情報番組で、地元球団である福岡チェリーブロッサムズの試合模様を振り返っているようだ。ダグアウトに戻るピッチャーがセカンドとグラブタッチをする場面が映った。

「まりやちゃん美人やね~」

 うなずきあう女子大生たちに、スタジアム・オペレーション主任の渡辺が振り向いた。

 渡辺はバイトチームの監督ともいうべき人で、白髪の混じる年齢だがとっつきやすく、話題が豊富で物知りな人だ。

「西内もええけどね、このセカンドの吉本もなかなかよ。この子は北九州のアカデミーから一軍に上がった選手なんよ」

「へ~!」

「やったら応援せんとね!」


 わいわい盛り上がっているところへ、渡辺とは正反対にとっつきにくい球団の上役がぬっと姿を現した。

 河村がうおっほんと咳払いをすると、みんなが口を閉じた。

 渡辺だけは変わらない様子で、「おはようございます、河村さん」

「ちょっと話をしてもいいかな?」と河村は言った。

「ええ、お願いします」

 何か言われる前にみんなはしゃんと背筋を伸ばした。河村の話は長い。


「この九月最後の週末、我らが親球団たる福岡チェリーブロッサムズは、今シーズン最後のホームゲームを戦う。前年最下位という屈辱から這い上がり、現在プレーオフ圏内をうかがう5位につけている我らが桜軍団の奮戦を観に、たくさんのファンが球場に詰めかけるであろう。

 半年に及ぶペナントレース期間中、声援を送り続けてきたファンたちに感謝の意味もこめて、この最後のホームゲームではさまざまなイベントが催される。チームはまだビジターで試合があるが、背広組にとってはここが今シーズンの集大成となる。

 我々サンフラワーズも、チェリーズを支える育成チームとして、全精力でこのイベントの成功に努めるのだ!」

 そこで君たちにも重大な任務がある、と河村は猫なで声で言った。

「それは――」スタッフの顔をぐるりと見まわし、「――荷物運びだ」


 蟻の行列よろしく、雄吾は同僚たちとぞろぞろ倉庫に入っていった。

 両手幅のケースをいくつも運び出し、バンに積み込んでいく。

 バンの中にはハィンがいて、運ばれてきたケースのタグを端末眼鏡で読み取り、リストと照らして漏れがないかチェックしている。

「衣装をこんなに持っていくんですか?」

「少ないほうですよ」ハィンは振り向かずに答えた。「チェリーズにはもっとたくさんあります。あちらは傘下組織全員のぶんをそろえますし、種類もたくさんありますから」

 倉庫に戻ろうとしたところ、端末眼鏡に社内通信が入った。

 公式サイトにも載っている河村の顔写真が空中にぽんと現れた。

「小僧、今すぐこっちに来い」

 返事をする前に通信は切れた。

 しぶしぶ、裏門を出てぐるっと路地をまわり、球場正面に向かう。


 正面ゲート前の広場に、マイクロバスが停まっていた。

「福岡球団御一行様」と書かれた名札が見える乗降口から、アシスタントGMがのしのしと降りてきた。

「まだ中で遊んどる連中がおる」河村は球場を指差した。「おまえ、呼んでこい」

「えっ? でも河村さん、クラブハウスには近づくなって……」

「無許可で近づくなと言ったのだ。いいからとっとと行け!」


 クラブハウスの出入り口は二ヶ所ある。雄吾は一塁側のホームチーム用のドアから中に入った。

 左手の警備員室に一声かけ、球団ロゴを床にあしらった小さなホールに出て、突き当りを右に曲がる。端末眼鏡で社員用の地図を見ることができるので、はじめて入る場所でも迷うことはない。

 監督室やコーチの部屋を通り過ぎると、選手たちのロッカールームが見えてきた。もっと先には、ダグアウトや地下のトレーニングルームへの通路が続いているようだ。

 この辺りは主にユニホーム組が出入りするエリアで、クラブハウスと呼ばれていた。売店が並んだ二階のコンコースと、個室席がある三階は、観客が出入りできるということから、スタッフ間ではクラブハウスと呼んでいない。


「おはようございまーす。そろそろバスに移動してくださーい」

 騒がしかった部屋の中が静かになった。大人の職員とは違う声が聞こえたので、選手たちは不思議に思ったのかもしれない。

 最初にロッカールームを出てきたのは、垢抜けた感じの女の子だった。その顔を見て雄吾はあっとなった。

 サンフラワーズの先発投手スターター、ジヒョンだ。

 はじめてのパールボール観戦で、地元チームに勝利をもたらしたこのサウスポーの顔を雄吾はよくおぼえていた。私服姿ははじめて見たが、かわいらしいニットの背中に47番の幻が見えそうなほど、彼女のユニホーム姿は眼に焼きついていた。


 その左腕と今、こんなに近くで視線をあわせていることに、雄吾は不思議な心地がした。

 黒髪にところどころ蛍光色のラインを入れ、しっかりした化粧で大人っぽい雰囲気のジヒョンだが、これで十六歳というから驚く。雄吾と一つしか変わらない。

「ジヒョンさん! おはようご」

 ばちん、といきなり頬を張られた。

 ぐいんと顎が右を向いた。

 そして雄吾が思ったのは、さすがプロは利き腕を使わないんだなということだった。


「男はここに来るなちゃ!」

 一喝したジヒョンの迫力に、雄吾は思わず道をあけた。

 歩き去る47番を呆然と見送っていると、ほかの選手たちも廊下に出てきた。

「ジヒョン、そんな言い方したらいけんよ」

「君、大丈夫?」

「痛かったやろ~?」


「いやあの、すいません」と雄吾はそれしか言えない。

「謝らなくていいんよっ」

「うちらが着替えよぉときはだめやけどね」

「ゆっても、試合前とか記者さんバリ押しかけよぉけどね」

 華やいだ笑いが起こった。

 それ自体は、雄吾が学校で聞いているものとあまり変わらない気がしたけれど、こうも顔の良い女の子たちばかり集まっている光景はなかなかお目にかかれない。

 別世界、というと言いすぎかもしれないが、雄吾は味わったことのないふわふわした気持ちになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る