第14話 マリーの故障
「
計器を見ていた看護師は、そばのベッドのほうにゆっくりと振り向き、困惑した様子でまばたきをした。そこに横たわる患者の顔に巻かれているのは何か――目隠しだ。
「ライト?」
「まぶしいんです」と患者は呟き、点滴を打たれた左手を気だるげに持ち上げ、目隠しの上に置いた。
別の部屋では、ヴィクトルと朱里絵が、館山夫妻と対面していた。
「原因がわからないって、どういうことですか!」
朱里絵の剣幕に、館山は大きな身体を縮こませたが、妻のちえみは椅子に座ったまま身じろぎ一つしなかった。
「何もないのに、眼が見えなくなるわけないでしょう!」
「ジュリエ」とヴィクトルがなだめるように朱里絵の肩に触れた。
「わかることから話そう」と館山は慎重な声音で言った。「マリーは光を失ったわけではない。その逆だ。彼女の眼には光が溢れているんだ」
「どういうことだ、タテ」今度はヴィクトルが怒ったような声を出した。「あの子が救急に運び込まれたときは、日光網膜症の疑いがあると言われたぞ」
「太陽を直接見てしまったというのは聞いている。だがそれで眼が焼かれてしまったわけではない。そのとき何かが起きたのは確かだと思うが……」
「先生」とちえみが口を開いた。再生医である彼女の声の温度と身体のサイズは夫の半分ほどしかない。「曖昧なことを言うのは控えてください」
館山は申し訳なさそうに丸刈りの頭を掻いた。
「精確に、わかっていることだけをお話しします」とちえみは続けた。「検査の結果、マリーの眼底に異常が見つかりました。ただ、これは形態的な異常ではありません」
「剥離も濁りも出血もない」と言った館山は、妻が横目で見ているのに気づいて肩をすくめた。「眼圧も正常で、どこにも傷一つない。それこそ、とれたての真珠みた――」
「見つかったのは、作動メカニズムの異常です」ちえみは夫を遮って言った。「今、彼女の網膜は、断続的に光刺激を受けた状態でいるのです」
「目隠しをしているのに?」と朱里絵は訝った。
「実際に光が届いているかどうかは関係ないんだ」と館山は言った。「マリーは目隠しをしているにも関わらず、まぶしさを訴えている。これは、彼女の眼がただひたすら一つの映像を――おそらくは太陽の映像を見ているからだろう。
もちろんそれは誤った視覚情報だが、網膜の器官の多くが、その過ちに気づかないまま、同じ信号を脳に送り続けているんだ」
「現に眼に入ってくる本物の光にはほとんど反応しません。だから見えないのです」
「タテ」とヴィクトルは動揺した様子で言った。「私は……君とチエミのことを、心から信頼している。しかし……本当に、ほかの病気の徴候はないのか? 急性の緑内障か、込み入った網膜炎では?」
館山は首を振った。「君も知ってのとおり、今マリーが持っている眼は、そういった疾患につながる遺伝子の『キズ』をすべて修復したものなんだよ」
「じゃあなんで急にこんなことになるんです?」と朱里絵は詰め寄った。「取り替えた眼が見えなくなるなんて、考えられる理由は限られてるんじゃありません?」
「僕と家内を疑う気持ちはわかる」と館山は弱った様子で言った。「ただ、我々が目指したとおりに移植はうまくいったんだ。マリーは新しい眼を完ぺきに自分のものにしていた。神経結合、免疫反応、どこをとっても異常はなかった」
「ゲノム情報についても同様、移植前の最終チェックでも先ほどの検査でも、正常モデルから大きく逸脱した変異は見られませんでした。今の彼女の眼が、すでに原因遺伝子がわかっている眼疾患のすべてに対し抗力を持つことは確かです」
「じゃあ――」
「ただし」とちえみは朱里絵を遮って言った。「残念なことに、現在の医学はすべての眼疾患の原因遺伝子を突き止めてはいません。ましてや、マリーの眼に棲みついたこの悪魔には、名前すらついていないのです」
ヴィクトルは眼を剥いた。「未知の疾患に襲われた……あの子が……?」
「精確にいえば――」
「そうだ」と館山が妻を遮って言った。「どうやら……ビク、僕らの懸念が現実のものになってしまったのかもしれない」
ヴィクトルは眼鏡をはずして片手で顔を覆い、ちえみはわずかに視線を落とした。
「どういうこと?」と朱里絵は三人の顔を見比べて言った。
「実は以前から、マリーの眼の底には不可解な様子が見られたんだ。今までの担当医もカルテに記しているが、ごくごく些細な変異だから、ほかの眼疾患の影響だろうと放っておかれた。しかし、この小さな『しみ』とでもいうべき変異は、新しくつくりあげたマリーの眼にもまったく同じように現れた」
「外科手術を何度重ねても同じような病変が起こる。これは遺伝子異常に起因する疾患の特徴のひとつです」
朱里絵は不安に駆られた眼で恋人を見た。しかし彼は顔を覆ったまま動かない。
「ねえ」と朱里江はヴィクトルの腕を揺すった。「また新しい眼を移植するのじゃ駄目なの? かわりを新しくつくりなおせばいいんじゃないの?」
ヴィクトルは顔を上げたが、青灰色の眼がうつろに揺れていた。「再生バンクにもう一対、スペアの眼があることはある。しかし……」
そこで医務机の仮相環境に通信が入った。
ちえみは宙に浮いたウィンドウに触れて応答した。「どうしました」
「あの、患者さんが――」
強張った顔の看護師が続けて発した言葉に、誰も反応することができなかった。
「『もう、まぶしくない』って……」
雨は宵闇とともにひっそりと地表に降りてきたので、何もかもがひとりでに滴を垂らし震えているようなさびしい夜になった。
雄吾はしんとした家の中で、街灯が差し込む薄暗い自室にこもっていた。
机に頬杖をつき、仮相環境でMLBの録画中継を観るともなく観ていたが、不意に入った着信に思わず椅子を倒して立ち上がった。
発信者はマリーだった。顔通話用の仮相ウィンドウに、初期設定の胸像のシルエットが表示されている。
「もしもし、マリー?」
「ハーイ、ユーゴ」
マリーの声だ。しかし雄吾の視界に映るのは、眼も口もないシルエットだけ。設定を無表示に切り替えた。
「どうだった? 何かわかったのか?」
「うん。でも……先生たちは最初からわかってたみたい」
「わかってた?」
「そう。わたしも、病院に着く頃にはもうわかってたの」
最初は大騒ぎしちゃったけど。そう言ったマリーは照れ笑いをしたようだったが、その笑い声も少しかすれていた。
「わたしもびっくりしたけど、ユーゴはもっとびっくりしたよね。ごめんね」
「いや、いいよ俺のことは……。それより」雄吾はマリーのグラブを置いたベッドに腰かけた。「治ったら、またキャッチボールしような。俺、練習しとくよ」
ちょっとのあいだ、返事はなかった。雄吾は落ち着かずに立ち上がった。「マリー?」
「……わたし、ちょっと時間かかるかもしれない」
雄吾は口を開いたが、言葉が出てこなかった。
「でも」とマリーは言った。「絶対またキャッチボールしようね。約束よ」
「うん……約束な」
じゃあまた、とお互いに言って通話を終えた。
雄吾はグラブを持ったまま部屋の真ん中で立ち尽くした。
マリーの言葉が何度も頭の中で繰り返され、その光る出口のない反芻が収まると、またひとりぼっちの部屋と雨音が雄吾をとらえた。
どこまでも続く曇り空から、雨はやむことなく振り続けた。
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