第13話 病院へ
犬がやけに吠えているのが聞こえ、雄吾は振り向いた。
倒れている女の子の姿が眼に飛び込んできた。
「マリー……?」
最初は何がどうなったのかわからなかった。そちらに近づくにつれ足が速まり、額からさあっと冷たいものがおりてきた。
「おい! マリー?」
そばにしゃがんで見ると、マリーの身体には細かい傷がいくつもあり、服に木屑や葉片がついている。
幸いなことに意識はあり、とても弱々しい動きでまわりを見まわしていた。が、眼の焦点が合っていない。
「ユーゴ……」
マリーは崖から落ちまいとするような必死さで雄吾の服を引っ張った。そして雄吾の顔を見たようだったが、その視線は不自然に宙に浮いていた。
「わたし……死んじゃう……」
そのこわいくらいに透きとおった蒼瞳から一筋の涙がこぼれ落ちたとき、呆然とする雄吾のもとにひとりの男が駆け寄ってきた。
「君、大丈夫か」と言った男の声は水面を隔てたように遠く鈍く響いた。
あふれんばかりの奔流が周囲の景色を飲み込んでいった。
救急車のサイレンや救命士の呼びかけやマリーの嗚咽とともに雄吾は遠いところに押し流され、気づいたときには、まばらな人影とささやき声だけの空虚な待合室に打ち上げられていた。
薄暗い救急外来のベンチに座り、雄吾は自分の左腕を見た。
マリーに握られたところが青く変色し、くっきりと爪痕まで残っている。それら痕跡の一つ一つが、マリーの身にどれだけのことが起こったかを物語っているようだ。
「ユーゴ」
はっと顔を上げると、ヴィクトルがいた。走ってきたのだろう、肩で息をしている。
雄吾は立ち上がると同時に泣いてしまいそうになった。するとヴィクトルが肩に触れて「大丈夫か」と訊いた。
「ごめん」と雄吾はなんとか言った。「俺が、ちゃんと見てなかったから」
ヴィクトルは首を振って、雄吾を抱き締めた。「おまえがいなかったら、どうなっていたことか」
ヴィクトルの腕はあたたかかった。それでもまだ雄吾は寒気を感じた。のどの奥で不吉な予感がのたうちまわっていた。
「マリー、眼が見えないって言ってて……」
ヴィクトルは一瞬固まったようだったが、すぐに身体を離し、雄吾の顔を見ながら「大丈夫」と言ってうなずいた。
「マリーも私も、こういう事態ははじめてじゃない。だから大丈夫だ」
「でも、マリー、泣いてたんだ」雄吾は訴えた。「死んじゃう、って」
一瞬、ヴィクトルは視線を右下に向けたが、すぐに向きなおって雄吾の顔をしっかりと見返した。
「とにかく今は、マリーの無事を祈っていてくれ。私は医者と話してくる」
行ってしまった。
雄吾は雑然とした気持ちのまま、ベンチに置かれたふたり分のバッグとグラブを見下ろした。しばらくそこから眼を動かせなかった。
「君……」
最初は自分が呼ばれていると気づかなかった。
のろのろと顔を振り向かせると、向こうから現実が歩いてきた。
眼をしばたたかせ、よくよく見ると、それは男だった。公園にいた犬の飼い主だ。
「妹さんの具合はどうだい?」
「今、診てもらってます。さっきは助かりました。救急車を呼んでもらって……」
男は少し笑みを見せた。その笑い方や身のこなしには、血の気の失せた病院にはあまり馴染まない溌剌とした雰囲気がある。
顔のしわを見れば中年であることがわかるし、頭はつるりと剃り上げているが、どことなく少年っぽさを感じさせる人だ。
「大下だ」と言って、握手をした。「君は?」
「高梁です。高梁雄吾」
「暗い顔だ、雄吾くん。無理もないが、しかし、妹さんは大丈夫だと思うよ。いくら木から落ちたとはいえ――」
「木から落ちた?」雄吾はびっくりして聞き返した。
「そう。君の妹さんはどういうわけか、木から落ちた。僕の犬が気づいて、横から飛び込んだから、地面に叩きつけられはしなかったけどね」
「そんなことが……」
信じられないが、事実なのだろう。大下はこの話を、駆けつけた救急隊員に伝えておいたという。
雄吾もその場にいたはずだが、救急車のメディカルAIが滔々と宣するマリーの容態に愕然として、聞いていなかったようだ。マリーは裂傷や打撲だけでなく、軽度の亀裂骨折も負っていた。
「あなたは、ずっと見ていたんですか?」
「いや、僕はかくれんぼをしていた」
「かく……、え?」
「犬が鬼で、僕は遠くの木の裏に隠れていたんだ。そしたら同行していたうちの職員がやってきて『大変です』と言った。その職員がすべてを見ていたわけだな」
雄吾がぽかんとしていると、左腕の内側がぴくと震えた。
皮膚下に埋めた受信チップが母からの電話を知らせていた。
朱里絵は愛車に跨って待っていた。サイドカー付きのハーレー・ダビッドソン。
駆け寄ってきた雄吾に気づくと、朱里絵はバイクスーツの前を閉めた。
「母さん、マリーには会ったの?」
「ええ。早く乗りなさい」
サイドカーの革張りのシートに文字通り飛び乗った。
朱里絵がフルフェイスを通して見ている仮相の地図がサイドカーのフロント・ウィンドウにも表示され、渋滞を考慮した最短経路が示されたかと思うと、バイクは二十世紀の音を立てて走り出した。
雄吾はヘルメットを被り、通信を親機とつないだ。「家に行くの?」
「着替えを取りにね」スピーカーを通した朱里絵の声はややくぐもっている。「今日じゅうに神戸に行って、詳しい検査をしてもらうから」
雄吾はそこに誰がいるかを思い出した。「館山さんに診てもらうの?」
「そうよ。館山さんと奥さんは、マリーの眼の再生治療を担当した医師なの」
再生治療――雄吾はその言葉をすぐにはつかめなかった。
患者自身から採取した細胞片をさまざまな身体のパーツに成長させ、不良になったものと交換する。学校でそう習ったことはあったが、それがこんなかたちでぶつかってくるとは思いもしなかった。
「マリーは昔から眼の具合が悪くて、何度も手術を重ねてきたの。眼の底の要らない血管を切ったり、角膜を移植したりして。それが相当な負担になっていたらしいわ。
だからヴィクトルは決断して、両眼をそっくりそのまま取り替えることにしたのよ。マリー自身の細胞から育てた、遺伝子の異常がないクリアな眼球を使って。眼の再生医療の分野で有名な館山さん夫婦に治療してもらうために、カナダから日本までやってきてね。それが去年の話よ」
「去年?」
「そう。早すぎるわよね」朱里絵は歯がゆそうに言った。「ヴィクトルは先生たちのこと信頼しきってるみたいだけど、私は一度しっかり説明してもらわなきゃ納得できない」
どんな説明があるというのだろう――飛んでくるボールを難なくキャッチしていた女の子が、ものの数分で霧の中に引きずり込まれてしまうようなことについて?
雄吾が考える間もなく、我が家が近づいてきた。
「たぶん泊まりになるわ」フルフェイスをとって朱里絵は言った。「雄吾は学校があるから行けないでしょ?」
いや、と言いかけて雄吾は口をつぐんだ。これまで勉強勉強と散々言い訳に使ってきたのだ。今さら学校なんて構わないなんて言えない。
「いいのよ」と朱里絵はやさしく言った。「偶然にせよ、雄吾がついていてくれてよかったわ。マリーの友達が帰っちゃったから、いっしょに公園まで行ってあげたのよね」
「それは……マリーから聞いたの?」
「ええ。無理言ってキャッチボールの相手してもらったんだ、って。アイマスクして包帯も巻いてたけど、明るく話してたから私、ほっとしちゃって……」
雄吾は黙っていた。口を開けば嗚咽が洩れてしまいそうだった。
うつむいて唇をぎゅっと噛み、マリーから借りたグラブをただただ強く握っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます