第12話 broken
「本当にいいの?」
朱里絵は玄関までついてきて念を押すように訊いた。
「わたしたち、山口のほうまで行ってくるわよ。空気がおいしくて緑いっぱいの場所に」
雄吾はお気に入りの靴のかかとを潰さないよう、そっと足を差し入れた。
「ピクニックも良いけどさ、俺、次のテストで一位狙ってるんだ」
「そこまで頑張らなくていいのに」
「今、チャンスなんだよ。この前のテストで一位だったやつが卒業したから」
朱里絵は息をつき、わかったわと言った。
雄吾はバス停から小倉北区行きのバスに乗り込んだ。窓から見える空は真っ青に透き通り、その中を雲がゆっくりと泳いでいた。
もう梅雨は終わってしまったのかなと考えていると、さっきの朱里絵とのやりとりが頭に割り込んできて、そちらを考えずにはいられなくなった。そして、この先あと何度あのような子どもだましのカーブボールを投げないといけないのかなと思った。
避難先は繁華街のアミューズメント施設だった。週末のこの日はグループ客でにぎわい、カラオケのフロアには順番待ちの列ができていた(並んでいるのはほとんど全員アバターで、本人たちはファミレスやカフェで時間をつぶしているのだが)。
中でもMRゲーム場は大盛況で、エレベーターに同乗していた客の八割がその階になだれ込んだ。
雄吾は五階のバッティングセンターで降り、金属バットの響きを耳にした。
待合室のソファにいるのはたったの数人、フロントのバイトスタッフはあくびをかいている。
好ましい雰囲気だ。これなら思う存分打てる、というより、思う存分空振りできる。
「うっしゃあ!」
奥から聞き覚えのある声がして、雄吾はぴたりと立ち止まった。
「それ試合で打てちゃ!」
「しゃあしい!」
うちの野球部連だ――よりによって、こんなところで。
豪田が振り向いた。雄吾は思わずしゃがんで隠れた。
迷いに迷ったが、結局出口まで引き返した。腰を低くしてこそこそと移動するのを見られるのは、空振りを見られるよりずっと恥ずかしかった。
階を下りてスポーツゲームのフロアに逃げ込むと、またもや知った声が聞こえてきた。
「待てちゃ。そいつはそこに置けんて」
「え~何でなん?」
「だけぇ、こいつは右っかわで、こいつは真ん中、こいつは――」
栗田だ。いっしょにいるのは、幼なじみの女の子だろう。前から話は聞いていたが、ふたりでいるところははじめて見た。
ともかく、ここもあきらめるしかないようだ。
どうも今日は巡り合わせが悪い。どこに投げてもボールと判定されているような気分になる。
人通りの多い道は避け、筋から筋へあてもなく歩いた。歩きながら、何やってんだろうとため息が出た。
背中が汗ばむまで歩き続け、ついに三萩野まで来てしまった。もう少し歩けば北九州サンフラワーズの本拠地があるところだ。
ここまで来たら球場に寄ってみようかと考えた矢先、眼の前にひょっこりと寂れた看板が現れた。
バッティングセンターだ。
高層住宅に囲まれたこんな場所にあるなんて。
雄吾はその平屋の建物をしげしげと眺めながら中に入り、電子通貨の使えない自動販売機で久しぶりに現金を使いメダルを買った。
幼い頃、下北沢のバッティングセンターで同じようにメダルを買って打った記憶がよみがえり、そのなんだか懐かしい手触りに顔がほころんだ。
「ユーゴ?」
その声に、雄吾は頭がまっしろになった。
マリーがチームメイトたちといっしょにそこにいた。
「今日は勉強に行ったんじゃ――」
雄吾は外に飛び出した。
しかし道に出て少しも行かないうちに、足がもつれておもいきり転んだ。
全身に響く衝撃にくらくらしていると、誰かの手が肩に触れた。
「大丈夫っ?」
マリーの心配そうな眼差しに貫かれて、雄吾の眼の奥で何かが破れた。
こらえようとしたが、視界はどんどん水浸しになっていった。
◇
緑一面の芝生をラブラドール・レトリバーが駆けていく。
その走り姿を見つめる飼い主の佇まいは陸上のコーチのようだ。
そんなひとりと一匹の様子を、雄吾とマリーはベンチに座って長いこと眺めていた。
「今日ね、ジュリエが急に仕事入っちゃったから、ピクニックは中止になったの」
「うん……」
園道の木々が風に揺れてさあさあと音をたてる。
ふっと訪れた静けさに促されて、雄吾は声を絞り出した。
「俺、たぶん、混乱してるんだ。いろんなことが一気に起きて、自分の中にそれを全部受け入れるだけの容量がなくて……。どうしたらいいのかわからないんだ。新しい家族だなんて言われても……」
マリーはサングラスをはずし、雄吾の顔をじっと見つめた。
「わたしたちのこと、好きじゃない?」
雄吾はあわてて首を振った。「問題があるのは、俺のほうなんだ」
「そう? わたしが見る限り、ユーゴは
「俺はキャッチングに問題があるんだよ」
「それなら大丈夫よ」マリーはにっこり笑った。「リラックスして、慣れてくれば自然とキャッチできるようになるわ」
雄吾は肯定でも否定でもないニュアンスでうなずいた。
「ね、キャッチボールしない?」
えっと雄吾が驚いているあいだに、マリーはバッグを開けてキャッチャーミットとグラブを取り出した。
「さ、やろやろ」
「ちょっと待――」
グラブを胸に押しつけられ、芝生の真ん中まで引っ張られてしまえば、雄吾も観念するしかなかった。
マリーが「行くよ」と言って投げたボールをなんとか捕まえ、それをおっかなびっくり投げ返した。
硬球を扱うのははじめてだったし、パールボールの球は加減が難しかった。野球の球より少し大きいようだ。
ときどきショートバウンドを投げてしまったが、さすがにマリーのキャッチングは巧みで、一度もうしろに逸らさなかった。
「もっと強く!」とマリーは言った。
いつしか雄吾の頭の中は、良いボールを投げる、そのことだけになっていった。
ふたりのキャッチボールは次第に熱が入り、マリーのスローイングにも力がこもった。
するとボールがやや強く、高く行った。
送球が頭を通り過ぎてから雄吾はグラブを上げ、捕れなかったことにびっくりしたようにうしろを見た。
「あ、ごめん!」とマリーは謝ったが、ボールを追いかけに行った雄吾には聞こえなかったようだ。
マリーが投げる動作の点検をしながら、うーんと唸っていると、近くで犬が吠えた。
一本の木の根元に、ラブラドール・レトリバーがいる。いっしょにいたはずの飼い主の姿は見えない。
犬が樹上に向かってしきりに吠えるので、マリーは近づいて同じところを見てみた。
「あ、猫」
まだ幼い感じの子猫が木の枝にうずくまり、じっとこちらを見下ろしている。
いじめちゃだめと犬に言ってから、マリーは子猫を救うべく木に登った。
木はしっかりとした身体と腕を持っていて楽に登れた。若葉の青々としたにおいが広がり、木漏れ日がちらちらときらめいた。
梢の影で子猫の両眼も光っていた。サングラス越しに見るとどれが猫の眼かわからなくなりそうだ。
無数の光る眼がそれぞれに瞬きながら、じっとこちらを見ている、そんな気がした。
「ほら、おいで」
マリーが手を伸ばすと、子猫は身を縮めてにじり下がった。
「こわくないよ」
さらに手を伸ばしたとき、子猫が突然鋭く鳴いて飛びかかってきた。
「きゃっ――」
風が梢を大きく揺らし、散った若葉とともにサングラスが落ちていく。
顔を押さえていたマリーはゆっくりとまぶたを開いた。
そして見てしまった。何も遮るもののない太陽の光を。
その透明な炎を。
風がやんで梢の揺れがおさまり、再びマリーは影に包まれた。
しかしそれがわかったのは、肌に感じる熱が消えたからだ。
震える指先で睫毛に触れる。自分が眼を開けているのか閉じているのか確かめるため――最悪なことに、両眼はこれ以上ないほど見開かれている。
どくん、と胸が大きく鼓動した。
マリーは弾かれたように右、左と頭を振ったが、どこを見ても眼に映るものは変わらない。
どくんどくんどくんと心臓が早鐘を打つ。
「マリー……」雄吾の声だ。
「ユーゴ……ユーゴ!」
マリーは声のするほうを向き、無意識にそちらに動こうとした。手を前に伸ばし、探り当てたものをすがるようにつかんだ。
枝が折れる乾いた音を聞いたとき、マリーの身体は大きく傾いていた。
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