第11話 彼女の眼にうつるもの

 カーテンが揺れている。空を飛びまわって窓から入ってきた風が、ポニーテイルにまとめた金色の髪をふわりと舞い上がらせる。

 家の中にマリーはひとりで、二階のピアノ部屋から外を眺めていたが、明度の低い単調な色彩に飽き、サングラスをはずした。

 夏が投球練習を始めている。中休みに入った梅雨の面影は地平線のこちら側の至るところから蒸発しつつある。

 空は眼にしみるほどに青く澄んで、真っ白に塗られた地表は時が止まったように静かだ。


 角砂糖みたい、とマリーは思った。あらゆる建物は建物らしく、あらゆる自動車は自動車らしくふるまっているが、その実それらすべては砂糖細工なのだ。

 そのうち、庭木のチェリーや道行く税理士の顔までが白く溶け出した。

 すべては太陽に溶かされて、一杯のミルクになる。

 そうなる日が来る。きっと、いつか――

 眼を閉じて、しばらく風の音を聴いた。


「マリー」

 はっとして、マリーは振り向いた。

「あんた、『夏への扉』でも読んだの?」

 また声が聞こえたが、部屋のどこにも人の姿は見えない。

 ピアノの陰に隠れていることもないだろう。この声の主はどこにも隠れないし、隠れられないのだ。

 マリーはコンタクトレンズ型のオプティック・デバイスをつけた。何度かまばたきをするうちに眼とデバイスが馴染み、そこに投影されているものをじょじょに浮かび上がらせた。

 尖った眼鏡をかけた、丸々とした身体つきの若い女性だ。

「あら、見えてなかったの?」と彼女の声がした。

「いいえ」とマリーは言った。「ビッキー、今日のレッスンは休みなんじゃないの?」

「うちの重像機レイヤーが直ったから来たわ」と音楽講師は言った。「あたしってば仕事熱心だし、MITの恋人がいるしね。ああ愛しのサンディ。ちょちょっと修理してくれて。あたしをいじくるときもあれくらい上手にしてくれたらいいのに」

「ふーん」

「それより、ねぇ、ヴォリュームがちょっと大きいわよ。あたしの声がぐわんぐわん響いてやかましいったらありゃしない」

「わかった。待ってて」

 マリーは仮相環境で重像機レイヤーを操作した。しかし間違えていたずらアプリを起動させてしまい、ビッキーの胴体だけがぱっと消え失せた。

「あっ」

「スリムにしてくれてありがとう」ビッキーはそう言って鼻を鳴らした。



         ◇



 学生食堂はいつものように混みあい、いつもよりも騒がしかった。何種類もの異音の渦の中にあって、同じひとりの名前がテーブルのあちこちから洩れ聞こえた。

「朝倉さん、全然連絡つかないんですって」

「家も引っ越しとぉもんね」

「海外に行きよったっち噂よ」

 あれから、もう幾日も経っている。なのに、朝倉の「卒業サヨナラホームラン」とその前後に伸びる物語は、いまだ学校じゅうの話題をさらっているようだ。

「野球部! 朝倉のヘルメどうしよん?」

「ほかのと混ざってどれかわからん」

「じゃあ使いよんかちゃ?」

「もう使えん。負けたけ!」

 そう言う豪田や仲間たちの表情は晴れやかだった。

 彼らの様子を不思議そうに眺めていた栗田が、雄吾に振り向いて言った。「あいつら、ご機嫌やね」

「三回戦までいったからな」

「けど最後コールド負けやろ?」

「四回まで同点だったんだ。ピッチャーが球数制限で交代しなかったら、最後までわからなかった」

「ほ~、まるで観よったみたいやん」

「…………」


 仮相テレビの近くや自律演奏バンドの近くは避け、窓際のほうに行った。席に着いてすぐ、杉野が味噌汁をちょっとずつこぼしながらやってきた。

「ここだけの話だけど」と杉野は言った。「朝倉はクラブチームも辞めたって。どこかプロの球団と契約するつもりらしい」

「ようそこまで調べきるね」と栗田は呆れ顔で言った。

「いや、そんなに調べなくてもさ、日本真球連盟のホームページを見れば一発でわかるんだよ。プロ志望届けを出した選手リストの中に、朝倉がいたんだ」

 杉野はそこで唾をごくりと飲み込み、また息せき切って話しはじめた。

「日本のパールボール業界では保有権の問題が多いから、学校の部活じゃないチームを出てプロのチームと契約するときは必ずこの届けが要る。だから、朝倉がプロになるのは間違いないんだ」

「えぐいバッティングしよったもんねぇ」と言って、栗田はホットドッグにかじりついた。

「なぁ」杉野はテーブルに身を乗り出した。「朝倉がどこに行くかわかったらさ、俺たちで試合観に行かないか」


 栗田は口の中のものを噴き出しかけた。「なん言いよんかちゃ、おまえ」

「海外に行ってたらどうするんだよ」と雄吾は言った。

「そういう問題やない」と栗田は言った。

「そりゃあ、日本なんてパールボール後進国だし、朝倉ならもっと良いとこ行けるけどさ。なんといっても本場はヨーロッパで、アフリカでも盛んだし、南米にもビッグ・リーグがある。でも、どこにいたとしても観に行こうよ。きっと楽しいぞお!」

 ひとり興奮している杉野の顔を、雄吾と栗田はまじまじと見返した。

「おまえのその熱はどっから来よん?」

「雄吾も栗田も見ただろ、あの朝倉のホームラン。そしてそのあとの――」

「ええカラダやった」

「違う。そういうんじゃなくて、朝倉のふるまいなんだよ。なんかビリビリきただろ。ああいうことが、おれたちと同じ学校、同じ年齢のやつにできちゃうんだよ。それってめちゃくちゃすごいことじゃないか? 自分も何かしたいって思わない?」

「思わんよ」と栗田は言った。「あんなん、朝倉やけできるんよ」

「そうだけど……。でもおれ、何か、やってないことがあるんじゃないかって気持ちになるんだよ。人がびっくりするようなことじゃなくても、何か、今までの自分がやってなかったこと、できるって知らなかったことがあるんじゃないかって……」


 そこへサッカー部の連中がやってきた。

「面白そうなハナシしよるな」

「杉野、おまえ本気かちゃ」

「朝倉追っかけて地球一周するん?」

「ふつう、そこまでせんよ。なぁ?」

「おい」栗田は自陣でパスまわしをするサッカー少年たちをにらんだ。

なん? 俺ら別に、悪いっち言いよらんやろ」

「ただ、オンナの応援にそこまでするかぁっちゅう当たり前の疑問を――」

「おれだってわからないよ」

 杉野がちょっとびっくりするくらいの切実な声で言った。

「でもおれ、こんな気持ちになるのはじめてなんだよ。とにかく今までと違うことしたいんだよ」

 杉野は泣いていた。

「なんで泣くん?!」連中の何人かは慌てたが、残りは半笑いで杉野の肩を揉みほぐした。「わかったわかった。そんときは俺らもいっしょに行くけぇ、な?」

「おまえらは来んでええ」と栗田が言った。

 雄吾は、杉野のことを笑う気になれなかった。なぜだかわからないが、少し、うらやましいとさえ思った。

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