第10話 セーラー服を……
「おい、おい聞いたか」杉野が教室に入ってくるなり、慌てた声で言った。
「
「あああ朝倉が、学校、やめるって」
やめる? 雄吾と栗田はそこでようやく振り向いた。
「うん、いや、正確には、卒業らしいんだけど……」
「早卒か」
小倉一校中等部は、二年生の時点で中学全課程が修了する。それ以後は希望すればいつでも卒業することが可能だ。欧米の新学期に当たる九月に合わせて、早めに卒業する者もいる。朝倉は先日の試験の好成績を受け、急きょ海外進学を決めたのかもしれない。
「一位様やけ、高等部に飛び級するんやないん?」という栗田の予想もいい線だが、杉野はううんと首を振った。
「朝倉、どこにも進学予定がないらしいんだよ。だから、学校やめるって騒ぎになってるんだよ」
そのとき、隣のクラスのラグビー部が興奮した様子でやってきて、おい、朝倉が来よるぞと大きな声で触れまわった。
朝の静かな教室がにわかに騒がしくなった。
「どこおるん?」
「校庭よ! カバ田と勝負するち」
「はぁ?」
「行ったらわかるけ、早よう!」
雄吾たちは顔を見合わせ、部活生の集団に混じって教室を飛び出した。
校庭にはすでに物見高い生徒たちが集まっていた。バックネット付近は満杯で、雄吾の背丈では人だかりの後頭部しか見えない。
「うお、朝倉や」栗田はつま先立ちしている。「河田もおる。投球練習しよる」
焦れったい――雄吾はそこをあきらめて移動した。
右翼の校舎二階にある職員室の窓から、教師たちが顔を出しているのが見える。
人の少ない一塁側にまわり込み、そしてようやく、マウンドに立つ河田と、バッターボックスのそばにいる朝倉優姫を目の当たりにした。
朝倉は制服を着て野球部のヘルメットを被っていた。バッティンググローブを着けた右手で木製のマスコットバットを握り、足元はローファーだ。スパイクを貸せる人はいないのか、と雄吾は思わず辺りを見まわした。
「朝倉さん、かわいそう」すぐ横の女子生徒たちが話している。「卒業証書とりに来ただけやのにね」
「なぁ」と雄吾はその会話に割り込んだ。「これ、どういう状況?」
「河田先生が『勝負しろ』っち言いよるんよ」
「朝倉さんが打てなかったら、卒業は認めないって」
そんな馬鹿な、と雄吾は言いかけた。しかしその声は甲高いキャッチャーミットの悲鳴と、それに続く観衆のどよめきに遮られた。
「ナイッボォー!」捕手をつとめる豪田が練習のときより張り切った声で叫んだ。
「速ええ」栗田は細い眼を丸くした。「あれ140出とぉやろ」
「140?」と杉野は訝った。「100マイルの間違いだろ?」
ともあれ、巨体から投げ下ろす河田教諭のボールには相当な力があるように見えた。その投球を朝倉は横から見ているが、何を思っているのか、その表情は読めない。
「朝倉、入れ」河田が言った。
左打席に入る朝倉は顔をしかめている。
たしかに、彼女がムカついていいものはまわりにたくさんあった。河田の口に浮いた笑み、ずり落ちてくるぶかぶかのヘルメット、いひひ、ゆったん頑張れーっ、ははは、ゆーったん、ゆーったん――
そこで朝倉は妙な挙動に出た。バットを持った右腕を肩から大きくまわし、ピッチャーにぴたりと向けたのだ。
そのフォルムは弓を引く狩人のようにも見え、あまりに決まっていたので、囃し立てる声が一瞬止んだ。
「生意気なやつめ」河田は言った。
「世の中をナメたガキんちょを」振りかぶった。
「卒業させるわけには――いかん!」
投げた。
打った。
職員室の窓が砕け散った。
「……!」
呆然と打球を見送った雄吾は、まわりがすごい騒ぎになっていることにかなり遅れて気がついた。
みんなわけもわからず抱き合い、叫び、指笛を鳴らしている。誰からともなく「朝倉」コールがわき起こる。
制服のスカートがぱさりと塁線上に落ちたのは、そのときだ。
「何してるの、朝倉さん!」
女子は悲鳴を上げ、男子は気まずく押し黙った。
それでもお構いなしに、朝倉は制服の上着も脱ぎ捨てた。
ノースリーブとボクサーパンツだけになった朝倉は、一塁に到達したあとも直進し、その途中で雄吾と眼が合った。
顔を強張らせた雄吾に対して、朝倉はどういう変化球のつもりかニッと笑いかけると、右手にしていたバッティンググローブを取って、無造作にひょいと投げてきた。
わっと殺到してきた生徒たちに巻き込まれ、雄吾は前のめりに倒れて地面に押しつけられた。男子が女子を押しのけ、女子が男子に蹴りをかまし、朝倉を追おうとした校長は生徒たちのスクラムに阻まれ、河田教諭は大口開けて笑い転げている。
そんな混乱のさなかにあって、雄吾が地面に突っ伏したままじっとしているのは、頬の下にバッティンググローブの感触があるから。
あとで返すつもりだった。しかしこの手袋の持ち主はHR《ホームルーム》を放棄したまま、二度と戻ってはこなかったのだ。
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