3rd inning

第15話 兄としての決意

「失明……?」

 愕然とする雄吾を、診察室に集まった大人たちはそれぞれの苦さを噛みしめるような表情で見返した。

「精確にいえば、弱視ロー・ビジョンです」

 ちえみは仮相ディスプレイに表示されたマリーの眼のスキャン画像を振り返った。

「まったく見えないわけではありませんが、視野の欠けが著しく、矯正視力もあまり出ません」

 画像の倍率が上がった。

「原因は、視細胞の働きが失われたこと。眼底の異常反応が収まった途端、次々に機能を停止しました」

「花火が燃え尽きるみたいにね」と館山は言った。


「でも……治せるんでしょ?」

 雄吾は両隣の朱里絵とヴィクトルを交互に見やったが、ふたりとも難しい顔をしたまま黙っている。

「もちろん、再移植をすれば視力は戻る。網膜だけの病変なら、眼球全体を取り替える必要もない。ただ……」

 館山は妻と視線を交わした。

「そのスペアの眼にも、今回の事態を招いた、未知の遺伝子損傷が刻まれている可能性が高い」

「つまり、再発のおそれがあるということです」


「じゃあ」と雄吾はどもりそうになりながら言った。「手術しないんですか? 再発すると決まったわけでもないのに?」

「……マリーが、手術を望んでいないのよ」

 雄吾は信じられない気持ちで母を見た。しかし冗談を言っている顔ではない。

「どうして――」

「少し休みたいと言っている」ヴィクトルは静かに答えた。「あの子は今まで、度重なる手術に耐えてきた。いったんは治っても、またいつ病気になるかわからない、そんな不安と闘ってきた。眼を新しくすれば、それに終止符が打てると思っていたんだ」


 館山は無念そうにうなだれた。「すまない。我々の力不足だ」

 ヴィクトルは首を振った。「いや、君たちはよくやってくれた」

 ちえみは椅子から立ち上がった。「まだ終わりではありません。この病の原因遺伝子を特定できれば……」

「しばらく保存療法をとってみてはどうだろう。もちろん、マリーの気持ちが変わればすぐにでも移植を――」

「雄吾? どこへ――」

 朱里絵の呼びかけに答えず、雄吾は部屋を出た。


 頭の中がごちゃごちゃになっている。

 マリーの眼が見えなくなった。それだけでもショックなのに、本人が手術を拒んでいるというのはまったく考えられないことだ。

 いくら再発のおそれがあるからといって、そのままでいいなんてありえない。

 でも――そうだ、マリーは泣いていた。

 震えながら「死んじゃう」と叫んだのだ。

 それほどマリーが打ちのめされたのは、視力だけでなく、もっと大切なものまで奪われてしまうと思ったからではないか。


 “わたし、プロになるのが夢なの”


 雄吾はこころのどこかで、マリーの言葉を軽く思っていたのかもしれない。夢は夢であって、現実に日常生活を送れるようになるほうが大事じゃないか、と。

 けれどその見方は違うのだ。

 マリーにとって、パールボール以上に大切なものなどこの世界にないのだ。


 手術後のリハビリを経て日常生活に戻れたとして、パールボールの勘を取り戻すにはさらに時間がかかるだろう。もし再発すれば、それをまた一から繰り返すことになる。

 そうして築いたものを一瞬にして奪われる、という負のスパイラルから抜け出せなくなったら、一体どうなるだろう。

 マリーの選手生命は、終わったも同然ではないか。

 廊下の途中で雄吾は立ち止まった。あまりにも深い目の前の暗闇に足が竦んでいた。この先に歩き出せなんて、そんな残酷なことを言う権利が誰にある?


 ふと、にぎやかな声に気づいて顔を上げた。

 廊下を進むと、右側に広い部屋があった。

 一面のガラス戸の向こう、運動器具やマットやスロープのあいだに、目隠しをした金髪の女の子の姿が見えた。

「じゃあ~次、これは誰でしょう?」

 マリーは白杖をバットに見立てて構えをとっていた。医療センターの女性スタッフがそれを見て、困ったように首を捻った。

「そんな構えの人いるの……?」

「エ~ッ、有名じゃない! オネーサン、本当にパールボールやってたの?」

「やってたけどぉ……ていうかマリーちゃん、そろそろリハビリを――」

「じゃあ、次!」

「マリーちゃーん……」


 ぽかんとしている雄吾のところに、朱里絵がやってきた。

「不思議よね。あんなに元気そうにして」

「……無理してるんじゃないかな」

「そうかもしれない。あの子、あまり弱いところを見せないから」

 雄吾の眼には、はじめて会ったあの日の笑顔が焼きついている。しかし今のマリーの笑顔とは重ならない。どこか曇っているような感じがするのだ。


 顔を上げれば、水滴のついた透け天井から、ぼやけた灰色の空が見える。

 この雨の中を、眼をつぶったまま彼女はどうやって進んでいくというのだろう。自分ひとりで行くつもりなのだろうか。少なくとも、傘を差してやる誰かが必要なんじゃないか。


「……俺、マリーの助けになるよ」

 朱里絵は眼をぱちぱちさせた。あまりに小さい声だったので、聞き間違いだと思ったかもしれない。けれど雄吾の眼差しに気づくと、嬉しそうに笑った。

「よく言ったぞ、息子」

 朱里絵が肩を組んできたので雄吾は離れようともがいた。


 それから三か月が過ぎた。

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