第5話 chain

 どうして自分には、生まれる前に除いてしまえるような欠陥がいくつも残っているのか。自分は本当に遺伝子の修正を受けたのか。

 親に聞きたくても聞けないそうした疑念を、雄吾は自分をとりあげた担当医にぶつけてみたことがある。雄吾が生まれた東京の病院に、その医者はまだいた。


 もちろん、ご両親は君にゲノム編集を受けさせたよ。しかし人体というのは厄介なもので、ずっとあとになってから、修正した箇所が元の「キズ」に戻ってしまうことがある。これを先祖返りの一種だという研究者もいる。とにかく、わたしはやるべきことはやったよ。何だね、その顔は? 君は今あるものの価値をわかっていないようだね。もし君が何の処置もされず生まれていたら、今ごろ虫歯や薄毛や勃起不全に悩んでいたかもしれんのだよ。ご両親の決断に感謝なさい。


 と、医者は言うだけ言って顔通話を切った。

 自分でも調べていくうち、医者は嘘を言ったわけではないとわかった。遺伝子技術はとても優れたものだが、けっして万能ではない。

 治療をしても、遺伝子の異常のいくつかを残してしまうこともあるし、狙いをはずして正常な箇所を改変してしまったりもする。そこが異常だとわかっていても、手をつけることができない場合もある。そして本当に稀なことだが、治療に遣うナノマシンが突然変異を起こすケースも報告されているのだ。


 このナノマシンとは、電子回路を持つロボットのことではない。その正体は月で発見された微小生物で、生理回路を有機物用のプログラミング言語で加工し、コンピュータで遠隔操作するためのチップを埋め込まれた、いわばサイボーグとも呼べる代物だ。

 かつて一般的だった酵素による遺伝子編集技術よりも間違いが少ないことから、現在ほとんどの遺伝子治療で用いられている。しかし、このサイボーグ・バクテリアが突然変異を起こした場合、DNAにくっついて塩基配列に組み込まれてしまうことがあるという事実を知る人は少ない。その産物については知らない人のほうが珍しいというのに。

 緑色や銀色の髪を生まれながらに持つ、遺伝子サバイバーなどがそうだ。彼らは障碍や大病のリスクを取り去ったかわりに、遺伝子が自然ではありえない構成になり、その変成が見た目に表れて生まれてきた。その外見が、しばしばヘイトの対象になってしまうことから、雄吾がいつかバスで見たような啓発CMが作られるのだ。


 男より女のほうがゲノム編集の効果が高い、という俗説に根拠があることも雄吾は知った。

 ノーベル賞受賞者の男女比は急速に縮まってきており、不滅といわれた前世紀女子陸上世界記録の数々はあっという間に塗り替えられていった。こうした事実をもとに遺伝子の女尊男卑説が囁かれるようになったが、一方で医学界ではそのような言説が流れるのを歓迎していない。

 学者らは、知能や身体能力に効果的に作用する操作可能な遺伝子分岐点ヴァリアントはまだ見つかっていない、と一貫して主張しているが、『ただし』と注釈をつけている。

『ただし、完全に医療目的のゲノム編集の結果、意図せざる箇所にまで改変が及び、その改変が――偶然にも――骨格や集中力や脳の認知に作用するものだったということは、ありうる。そういったケースは、男性より女性のほうが多いようである』……


 昔の女の子はもっと小さかったのよ、という祖母の証言もある。同学年の平均的な女子とほぼ同じ身長の雄吾を慮っての言葉だった。

“おまえは、勉強のほうが向いている”

 河田の場合はこんな言い方で、野球を続けていくだけの身体的要件が雄吾に備わっていないことを告げた。

 部員定数が決まっている日本の部活動では、体格や身体能力で劣る者を入部テストでことごとく弾いていく。

 雄吾が一年生のときにそれをパスしたのは、万年一回戦負けの小倉一校だからだ――そう思っていたが、違った。単に顧問の河田が春の気まぐれを起こし、その翌年、今度は夏の気まぐれを起こしただけなのだ。

 あの夏は、人生で最悪の夏だった。席次で十一番になったのに、三十名定員の特進クラスに入れてもらえなかった。いつかはまたいっしょに住めるだろうと思っていた両親が、正式に離婚を成立させた。三年生が引退して、自分たちの代が主力になった途端、顧問から退部を勧告された。


 寒々としたあの夏の最後を締めくくった河田の言葉を、雄吾は今でも思い出してしまうことがある。指導室で遠隔授業を受けているあいだもそれはやってきて、そのたびに手が止まったり、鉛筆の先が折れたりした。

【指導中は木製文具しか使ってはいけない】この規則を考えた人物が雄吾を狙い撃ちしているようだった。

 机を並べている豪田と須根はやけに静かだったが、ちらちらとこちらを見ている気配があった。自分の眼だけでなく、他人のそれがどこを向いているかにも、雄吾はとても敏感だった。


「失礼します」

 仮相体の教師も消え、指導室の中は誰もいなかったが、野球部のふたりはしっかり一礼して廊下に出た。雄吾は先に歩き出していたが、豪田に呼び止められた。

「今度の試合、観に来てくれんか」

 雄吾は驚き、豪田の眼を見返したが、すぐに逸らした。

「俺ら、今まで遊びよったわけやない」

「ぜったい勝つけ。ぃよ」

 背中に当たる言葉に雄吾は苛立った。相変わらず、ばかでかい声だ。今でも雄吾が外野の右側にいると思っているのだろうか。もう、やつらの頭を越えるような大暴投をすることもないのに、どうして放っておいてくれないのか。

 誰もいない廊下をとぼとぼ歩いていると、すぐそこの校長室の扉が開いた。

 出てきたのは同じ学年の女子生徒だった。

 扉をうしろ手に閉めた格好のまま、動かない。ややうつむき加減で、さらりとした髪が表情を隠している。すっと立った鼻はしみ一つなく白いのに、ふわりとした頬がやけに赤い。小ぶりな唇をぎゅっと引き結び、やや呼吸の乱れがある。上気する胸から熱を逃がすように、ふう、と強めの息を吐き、そしてこちらに振り向いた。


 どきっとした。

 噂で聞いていた彼女の横顔は、クラスメイトの形容するどの言葉よりもずっと綺麗で、見入ってしまっていた自分に今さら気づいた。

 何見てるの! そんな言葉と冷たい視線を浴びせられると覚悟した。

 だが、思いがけないことに、その子の口元が小さく笑いかけた。

「君も、呼び出しくらったの?」と訊いてくる。

「まぁ……うん」

「めんどいよね、こういうの」

 口調は皮肉っぽいが、かわいい声をしている。

 近づいてきた彼女のスタイルの良さにちょっと圧倒された。彼女は雄悟の前をすたすたと横切ろうとした。

 が、途中で立ち止まってくるりと振り向くなり、深刻な顔を見せてこう質問した。

「ねぇ、私のこと知ってる?」

 は? と雄悟は眉をひそめた。こいつ人気を鼻にかけてるのか、という嫌悪感も手伝って、顔じゅうに素直な気持ちがあらわれた。おまえなんか、知らないよ。

 だよね、と彼女は強がるでもなく自然な明るさで笑い、またくるりと身を返した。

「よーし、突っ走るぞーっ!」

 言葉通りに廊下を駆けていく。

 雄吾はぽかんとするしかない。

 背を向けかけたが、気になってもう一度振り向いた。

 廊下の先に、あの子の艶めく髪が見えた。

 スカートがひらりとはためいて角に消えた。

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