第4話 20XX年のライフ 2

 教室に入ると、奥にいる背の高い男子が手を振った。

「お~す、雄吾」

 眠そうな顔をしている。朝だからというのでなく、いつもこうなのだ、栗田薫というやつは。

「観よった?」栗田は親指を上げて、背後の机の上を示した。

 一見そこには何もないようだが、雄吾の端末眼鏡がタグを読み取ると、そこに展開されている複合現実が、どっと洪水のように押し寄せた。


 ミニチュアの選手と審判が、縦六十五/横四十五センチの机の上に姿を現し、たちまち雄吾は球場を外から見下ろす巨人となった。

 英語の試合実況と球場のざわめきは、心臓を悪くしそうなほどうるさい。宙に浮かんだ仮相のボリュームバーを指で下げると、端末眼鏡のエアリアル・インターフェイスがその動作を感知し、すーっと試合音声が遠のいた。

 栗田の声がよく聞こえる。「さっき、ゴーギャンがホームラン打ったんよ。今のヤンキースで頼れるのはこいつしかおらん」

 また快音が響いた。オリオールズの選手が、ブロンクスの球場で放った打球は、小倉北区の中学校の机の上を悠々と泳いで、ニューヨーカーでいっぱいの右翼席に舞い落ちた。


 栗田は天井に向かって両腕を広げた。「ルノワール最高!」

「ヤンキース逆転されたけど、いいのかよ?」

「俺の持っとぉ選手が活躍してくれれば、それでええ」

 上機嫌に言って、栗田は高機能コンタクトレンズのi‐risで仮相環境にアクセスした。ゲームアプリの〈ナインス・ヘブン〉を開き、自分の持つ架空の野球チームのポイントや各ステータスを指でなぞっている。友人登録された雄吾のデバイスなら、共有スペースに広げられたそれらの仮相映像をありありと見ることができる。「お、ランキング上がっちょる!」


 ナインス・ヘブンはMLBが公式に携わった野球オンラインゲームだ。現実の試合における選手たちの活躍が逐次ゲームの中に反映される。

 雄吾も栗田も、現実のプロ野球に贔屓の球団はないが、ゲーム内にそれぞれ自分のチームを持っている。なまの試合で気にかかるのは選手の個人成績ばかり。それがゲーム内の自チームにどう影響するかをたしかめるという、それだけの目的で試合を観る。

 アメリカ国内でも、目の前の野球ではなく、仮相世界のそれを注視している人のほうが多くなっているという。MLBはこの現状について、伝統的な(t)スポーツと、電子の(e)スポーツの融合だと言い、胸を張っているようなところがあった。


「ヤンキース、調子悪いな」

「ああ。今年のメンバーじゃ、きちぃやろ。ローテの一番手があのブラームスやし」

「それのどこが悪いんだよ」と同じクラスの杉野が現れ、強い口調で言った。「ブラームスはおととしの最多勝ピッチャーなんだぞ」

「ゆーて去年ダメだったやん」栗田は肩をすくめ、指摘した。

守備バックが悪いんだよ」と言って、杉野はへそまで上げたズボンをぐいと引っ張った。「打線の援護もないし」ぶつぶつ言いながら、立体映像が展開されている席についた。

 雄吾は仮想環境にブラームスの成績スタッツを呼び出した。「指標見たら、そうとも言えない気がするけど」

 杉野は黙りこくってしまった。


「いじめんなちゃ」と栗田が雄吾を肘でつついた。

 たしかに、余計なことを言った。なんだかんだ杉野には世話になっている。こうやって質の高い立体中継で楽しめるのも、杉野の高級デバイスのおかげなのだから。

「数字を言うのはいけんよ。あいつ、ブラームスに大枚はたいとるけ」

「一番高いときに買ったんだって?」

「そうだい。そんとき二千万、それが今じゃ七百万やけね」

 雄吾も栗田も小声で話した。杉野に対して多少は気を遣う気持ちがあったし、お金の話だからというのもある。


 もちろん、何千万だのいう数字は架空のものだ。すべて、シミュレーション・ゲーム内のポイントで、現金ではない。

 とはいえ、そのポイントを稼ぐために現金が動くこともある。それはゲームをしない人からすれば、冗談だと思うような額になることもしばしばだ。

 杉野がオーナーとして資金を出し、同時にGMとして獲得の判断を下したブラームスは、昨シーズンのMLBで最多の失点と黒星を喫した。その現実世界の不振によって、ゲーム内の能力も市場価値も急落し、なお底が見えない状況に陥っている。

 一部の狂った「ヘブナー」から、脅迫まがいのメールが届くという報道もあった。それでも彼は、「自分の顔や球種さえも知らないような、デイトレーダーまがいの連中の言うことなど気にしない」と気丈なコメントを出した。

 しかし、警察が挙げたその脅迫文の犯人の中に、十三歳の孫に言われてやった八十歳のおばあさんが含まれているとわかって以降、この汗っかきのピッチャーは三試合続けてノックアウトを食らっていた。


「あ」

 無情な音がスピーカーに響いた直後、映像が演出仕様に切り替わった。机上には勝ち誇った顔で空を見上げるバッターだけが大きく映し出され、打ち出されたボールは教室の真ん中まで飛んでいき、手鏡を見ている女子の胸元に吸い込まれた。彼女はそれを見るためのデバイスを身に着けておらず、何も気づかなかったようだが。

「SEE YA!!」

 実況アナウンサーの声で我に返った杉野は、がっくりとうなだれて動かなくなった。

 栗田が雄吾を見て肩をすくめた。


「もう、見切りをつけたほうがいいんじゃないか」と雄吾は声をかけた。「放出するなら早いほうがいいよ」

「そうそう。ほかに使える選手おるやろ。たかがゲームで、ストレスためんなちゃ」

「……おれ、ブラームスのファンなんだよ」

 思いがけない返事に、雄吾も栗田も困惑した。

「ファン?」

 杉野の顎が動いた。うなずいたのか、俯きを深くしたのかは、わからない。「おれ、応援したいんだよ。ただ、それだけなんだよ」

 雄吾と栗田は顔を見合わせた。その間、投影映像はテレビ局監修の下、ブーイングを受けながらベンチに下がっていくブラームスを大写しにしていた。

「ぁあ! こいつゴミすぎるやろ!」

「ははは、だから早く捨てろって言ったのに」

 クラスにはほかにも、野球ゲームに熱中している生徒がいる。杉野が彼らと仲良くしようとしない理由を、雄吾はわかったような気がした。



         ◇



「あいつ、変わっちょうよねぇ」

 お昼に学食でひと休みしてから、校内をぶらついていると、栗田が思い出したようにそう言った。

「ファンやからっち、あんなん敗退行為やろ。課金したぶん全部無駄にして……あれでいいんやか?」

「まぁ」と雄吾は肯定も否定もせずにうなずいた。日本語はこういうとき便利だ。

「おまえはどうなん?」と栗田は訊いた。「追っかけよる選手おるん?」

 雄吾は一瞬考えたが、やはり首を振った。「俺は他人にそこまで熱くなれないと思う」

 栗田は口で冷やかすような音を出した。

「ばりクールやねぇ、雄吾くん」肩をがしっと組み、「だけぇ、女とええ感じなっても長続きせんのやろ?」と耳元で言った。

「まぁ」と雄吾は肯定的にうなずいた。

「否定せえや」と栗田が肩をどやした。


 外はもう雨の気配はなく、太陽がモナリザの微笑みのように淡く照っている。

 中庭を通りがかったところで、野太い合唱が聞こえてきた。

「お、野球部やん」

 中体連に向けての応援の練習をしているようだ。メインは一、二年生で、雄吾と同級の豪田と須根がその指導についていた。

 ハリセンを手にした豪田は、姿勢が悪い者を見つけると容赦なく小突いた。声が小さい者がいれば、その耳元に大声で歌った。

「気合い入っとぉねえ」

 栗田はひとごとだが、雄吾はそういうふうに見ることができなかった。だんだん表情が曇った。

 すると三年生のふたりが練習を中断し、下級生の二十人をにらみすえた。

「おまえら、つまらんぞ」

「やる気ねえなら帰れや」

 あります、ありますと下級生の声がぱらぱらと上がる。

「声そろえろちゃ!」二年生のひとりが頭をハリセンで叩かれた。


 雄吾はたまらなくなった。栗田が止めたが聞かなかった。

 須根が最初に気づいた。振り向いた豪田に、雄吾はいきなり言った。

「やめろよ、こんな意味ないこと」

「は?」

「下級生いびるより、自分たちの練習しろよ。試合するのはおまえらだろ」

 豪田と須根は最初驚いたようだったが、すぐに笑い声をあげた。

「ははは、何なん、こいつ」

「応援団入りたいんやろ」

「おお、ええやん。向こう並べ」

 雄吾の右手のすぐそばに豪田のハリセンが突き出されている。気づいたときには、そのハリセンを奪って豪田の横っ面を叩いていた。

「なんしよん!」

 顔を殴られた。しかし豪田の拳には戸惑いがあって全然痛くなかった。雄吾が相手の横腹に返した蹴りのほうがよっぽど乱暴だった。それでようやく豪田の眼にカッと火が点いた。

 しかし次の瞬間には部員たちが飛びかかってきて、何がなんだかわからなくなった。

「やめんか!」

 全員が動きを止めた。生徒指導の河田がそこにいた。

「先生……」

 野球部顧問でもある河田の登場に狼狽した須根は、「こいつが」と指をさまよわせた。

「おまえか、高梁」

 ニッと笑んだ河田の笑っていない眼をにらみ返し、雄吾はまだ押さえつけようとする下級生の手を払いのけた。


 行き先は保健室だった。名門小倉一校はそこらの学校とは違い、問題を起こした生徒をすぐさま警察に突き出すような真似はしない。

 少年心理の異常を発見するための百本ノックのごとき質問の数々にすべて答えたあとで、口に血がついているのを指摘された。

 殴られたときにできた小さな傷が「いいえ」と言い過ぎたがために開いたのかもしれない。それでも「いいえ」と言ったが、養護教諭は手当てをはじめた。

「どうして、こっちを見ないの」と若い保健室の先生は言った。「さっきからずっとよ」

 雄吾はフッと鼻で笑った。「先生知ってますよね? 俺が斜視だってこと」

「そんなこと気にしてるの? 別に、君の眼におかしいところなんてないわよ」

「てきとうなこと、言わないでください」声がにわかに大きく、早口になった。「俺わかるんですよ、自分の資料に何が書かれてるか。斜視だけじゃない。衝動的で、注意散漫で……ほかにもいろんな欠陥がある。DNAにもそう書かれてるんだ」

「それは――」

「遺伝子審査のとき、先生もいたじゃないか。知らないわけないだろ」


 投げつけた言葉は静寂となって跳ね返ってきた。ここにはキャッチャーもバッターもいないのだ。そのくせ審判はどこにでもいて、雄吾を「よし」と「だめ」の世界に閉じ込めている。

「ひとは遺伝子で全部決まるわけじゃないわ」

 でも、あんたたち大人は、それで全部決めようとするじゃないか。劣った遺伝子を、将来性のないものとして、切り捨てようとするじゃないか。

 雄吾は拳を握り、激しい言葉をぐっと飲み込んだ。

「……俺は、特進クラスに入れてもらえなかった。野球部も辞めさせられた。それが全部ですよ」

「雄吾」

 はっと振り向く。野球部のふたりがそこにいた。

「おまえ、自分から辞めたんやないん?」

「……知らない。どけ」

 雄吾はふたりのあいだを突っ切ろうとした。

「待てって!」

「離せ!」

 そこへ河田教諭が現れた。「おまえたち、いいかげんにしろ」

「待ってちゃ先生!」

「違うんやって!」

 河田の眼がぎょろっと動いて雄吾を見た。「高梁、何か言いたそうだな?」

「先に手を出したのは、俺です」

 豪田と須根は眼をぱちぱちさせた。河田の表情は動かない。

「三人とも、指導室に来い。たっぷりしぼってやる」


 豪田と須根は不安そうに顔を見合わせた。

 ふたりとも、はじめてあの部屋に行くのでびびっているみたいだが、何のことはない、ただ残りの授業をそこで受けるだけだと雄吾にはわかっていた。他校の生徒と喧嘩したときでさえ、その程度で済んだのだから、同級生とのいざこざなどいわんや、それほど問題にはされない。

 小倉一校は国が認めた名門で、社会のルールを破る生徒などいるわけがないのだ。

 在学中に複数回「指導」された生徒は、おまえで五十三人目だ。五十二人目は、俺の先輩だったよ。今はたしか、工場で働いているそうだ。

 さっき河田は雄吾にだけ聞こえる声でそう言った。遺伝子がそう言ったように雄吾には感じられた。

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