第3話 20XX年のライフ
インテリアが完成したその週末に、新しい家族は新しいおうちでパーティを開いた。
出席者は、朱里絵とヴィクトルが懇意にしている友人たちと、マリーのチームメイトの女の子たち。小倉南区にある閑静な住宅街に、手土産を持って集まってくれた。
ほかの参加者より少し遅れてやってきた中年の男に、ヴィクトルは特に篤い歓迎ぶりを示した。「タテ」と親しげに呼び、「よく来てくれた」と抱き合った。
「ビク、今日は招待してくれてありがとう」男は無精ひげの顔でくしゃっと笑った。
「こちらこそ」とヴィクトルは言った。「神戸からわざわざ」
「なあに。統制道路に乗ればすぐだよ」
「あら先生」と来訪者に気づいたマリーが廊下で立ち止まり、サングラスをずり下げて蒼い眼をのぞかせた。「来てくれたの」
「君がなかなか会いに来てくれないからな」
「アハハ、そのうち行ったげる!」
「約束だぞ!」
マリーは友だちといっしょにぱたぱたと家の奥に向かった。
「すまないな、タテ。近いうち必ずつれていくよ」
「無理にとはいわないさ。実のところ、家内のほうが会いたがっているんだよ。今日もお邪魔するつもりだったんだが、急に南米に飛んでしまって――おや」
「……こんにちは」雄吾は新しい客人に挨拶した。
「ユーゴ、こちらタテヤマさんだ」
「よろしく」館山が差し出した手を雄吾は握り返した。「僕は眼科医でね、歯科医のヴィクトルとは仲が良いんだ」
「我々は揃って
わはは、ふたりは大口を開けて笑った。雄吾は曖昧に笑み返してからそこを離れた。
リビングではさまざな料理と飲み物が振舞われ、朱里絵の業界の友人たちやヴィクトルの通う柔道教室の師範や門生が談笑していた。そのすきまに雄吾は「話すより食べるほうが好きな長男坊」というポジションを見つけてもぐりこんだが、厄介なお喋り好きの雑誌編集者から逃げ出すためトイレ休憩に立った。
しかし、廊下の途中でまた呼び止められた。
「ねえ」
マリーのチームメイトだ。以前、雄吾が観に行った試合で投げていたから、顔を覚えている。
彼女はボールによくスピンを利かせられそうな長い指をこちらに向け、「マリーの……おにいちゃん?」と訊いた。
「まぁ、うん」
「いくつ?」とまた別の子がやってきて訊ねた。
そこで雄吾は気づいたのだが、二階への階段にマリーのチームメイトたちが集まっている。こちらをうかがっているようだ。
雄吾がたじろぎながら答えると「十五だってー!」とすぐさま本陣に報告が行った。
「ポジションは?」
「え?」
「経験者だってマリーから聞いたよ」と三人目がやってきて言い、彼女たちはそれぞれ打つ投げる捕るの動作をして見せた。
「……勘違いだよ」
雄吾はふいと横を向いた。女の子たちは不思議そうに顔を見合わせた。そこへ頭上から軽やかなピアノの音色が降ってきた。
マリーだ。
「見に行こ!」女の子たちは連れ立って上階に向かった。リビングで大人たちも聴き入っている様子だ。「お嬢さんは多才ですね」と言われたヴィクトルは謙遜したが、朱里絵は上機嫌に請け合った。ほかの人も口々にマリーを褒めた。
雄吾は気づかれないよう、静かにリビングを通り抜け、サンダルをつっかけて庭に出た。
新しいおうちの防音設備は、ガラス戸を半ば以上閉めると、中の音をほとんど閉じ込めてしまう。雄吾の頭上には、音符のかわりにぽつぽつと小雨が降ってきた。
朝も昼もかわり映えしない灰色の空は時間の感覚を失ってしまったかのようだ。それでも少しずつ暗色が滲み出てくる時刻になった。マリーの友だちはひとり、またひとりとお迎えの車に乗り込んでいった。
大人たちは第二部を始めようとしていた。ずっと食べっぱなしだったのであらためての夕食はないようだ。雄吾はお勤めを果たした気分で席を立った。
自室に引っ込もうとしたとき、マリーが階段から顔を見せた。
「ユーゴ、部屋に行くの?」
「ホームワークがあるから」
「シュクダイ、毎日あるのね」
雄吾は肩をすくめた。「日本の子どもはみんな、勉強して優秀にならないといけないんだよ」少子化問題について触れるのはやめておいた。
「ふーん」
マリーは雄吾のそばに来て、壁に背中からもたれた。そうやって横に並び、ふたりの身長差がはっきり示されると、もともと希薄な「きょうだい」という概念はあとかたもなくなってしまうようだ。
マリーはもっと伸びるだろう、と雄吾は思った。それこそ、プロのアスリートにふさわしいほどに。
「じゃあ」とマリーは言った。「勉強以外のことをしたい子どもはどうすればいいの?」
「才能があるってことを証明するんだ。公式大会での実績はもちろん、指導者の推薦とか、遺伝子情報を提出したり」
「子どもの将来を、遺伝子で判断するの?」
マリーは信じられないといった顔だ。その反応は至極まっとうなもので、半世紀ほど前に国連がバルト宣言で示した国際倫理にも則っていた。
しかし、ここは日本なのだ。子どもに様々な選択肢を与えることを「資源の無駄遣い」と断じてしまうほど余裕がなく、G9のスタメンをおろされて久しいこの国は、
「この国の大人は合理的な教育をしたいんだよ。才能がなければ、芸術やスポーツにどれだけ時間をかけても無駄だ、って考え方なんだ。だからさっさと見切りをつけて、別の分野に打ち込みなさい、って。がんばれば結果が出て、現実に役立つ分野にさ」
「そんな……ちょっと極端じゃない?」
「そうかな」
「ユーゴはどう思うの」
その質問には答えず、雄吾は足元の暗がりに視線を落とした。「あのさ」
「うん?」
「友だちに言っておいてほしい。俺、野球の経験者でもなんでもないから」
マリーは困惑の表情を浮かべた。「でも……野球、好きなのよね?」
「好きってほどじゃないよ」
雄吾は自室の前に行ってドアを開けた。それから仮想環境を勉強モードにして机に向かった。いつの間にか眠りに落ち、朝起きると雨が降っていた。
市バスに乗った雄吾は、まわりの会社員たちとお互いに傘が当たらないようにしながら吊り革にぶら下がった。
乗客のほとんどは、種々のオプティック・デバイスが見せる複合現実に眼と耳を奪われている(それがわかるのは、顔の前に半透明の薄膜が浮いているからだ。そうでなければ、虚空を凝視する精神病者と見分けがつかない)。
誰もがプライベート・ビューにしているので、他人が何を見聞きしているかはわからない。定時ニュース、おもしろうと動画、闘議場観覧、そんなところだろう。
いつもなら雄吾もMLB
「遺伝子編集は、特別なことではありません」
その音声は不意に眼鏡のスピーカーを通ってきた。
顔を上げると端末眼鏡が反応し、車窓の内側を流れる仮相広告を映し出した。
大樹の幹をバックに、緑色の髪の人々――幼児から老人まで――が世代順に並び、はにかんだ様子で笑っている。
「世界中の赤ちゃんの88パーセントは、遺伝子の補正を受けています」
今度は、銀髪に褐色肌の女性アスリートの映像に変わった。どの出演者も、ある特徴を持っていた。遺伝子手術を受けた者にしばしば発現する、有名な特徴を。
「わたしたちは、88パーセントです」
誰でも名前くらいは知っている国際人権団体のロゴが出て、そのCMは終わった。
「――くん。ユーゴくん」
振り向くと、ひとりの乗客が雄吾を見ていた。髪をお団子にまとめたオリエンタルな雰囲気の女性だ。眼が合うと、にこっと笑った。
「奇遇ですね」と彼女は日本語で言った。「昨日の今日で」
「はい。びっくりしました」
雄吾は笑みをつくりながら、相手の顔に重なった仮相のプロファイル画面に眼を凝らした。
彼女の名前はハィン。朱里絵の友人。昨日の引っ越しパーティにも出席し、雄吾と会うのはこれで三回目(まじ?)。
外交的な親のもとで何十人もの知人友人をおぼえておくのはひと苦労だが、端末眼鏡さえあれば大丈夫。AIが社交場の空気を感じ取り、そのとき会った人たち全員をきちんと記録しておいてくれる。
「ハィンさんも、この路線使ってるんですね」
「いえ。ワタシ、乗るバスを間違えました」
「えぇ?」
雄吾は眼をぱちぱちさせた。しかしハィンはあっけらかんと微笑んでいる。
「新しい職場なので。だから大丈夫です」
「はぁ」何が大丈夫なのだろう?
「楽しいところですよ。ユーゴくんも一度、遊びに来てくださいね」
「んーなヒマはねえっちゃ!」
と言ったのは雄吾ではない。
優先席で居眠りしていた中年の男が、よろりと立ち上がって近づいてきた。
飲み屋からの朝帰りといった風体で、まだ酔いの残る目つきでハィンをじろじろ眺めながら、雄吾の肩に体重をかけて手を置いた。
「この制服見りぃ! 天下の小倉一校よ。こん子らが明日の日本を背負って立ぁつ! 遊びよるヒマなんかなーい! のう?」
男は同意を求めたようだったが、雄吾は彼を押しのけた。男はふらふらとハィンのほうに行った。
「だけぇ、あんたとは俺が遊んじゃる! ハウマッチ?」
これだけ騒がしいのに、近くの乗客はそっぽを向いて、離れた席の乗客だけが遠巻きに様子を見ていた。
仕方なく、雄吾があいだに入ろうとしたとき、バスの車内アナウンスが響いた。「次は一校前です」
「入場料は八百円からですよ」とハィンはこわがる様子もなく、笑みさえ見せながら言った。
「はっぴゃくえん? あんた、そら安すぎやろ」
「じゃあグッズも買ってください」
「買うけ買うけ。お店どこちゃ?」
雄吾は何度も振り向きながらバスを降りた。ハィンのことは心配だったが、制服姿でもめごとに関わるリスクを考えた。
生徒指導などこわくはない。けれど、今は時期が悪い。
家に――もはや朱里絵だけがいるのではないあの家に一報されたらと思うと、ぞっとする。
生徒指導担当の教員たちは毎朝校門のところでにらみをきかせている。今日もまた、ひとりの女子生徒が呼び止められていた。
届け出ていないデバイスを持ち込もうとして、校内限定の局地ネットが展開するファイア・ウォールに引っかかってしまったのだろうか。もしくは、両手のデジタルタトゥーが見つかってしまったとか。アプリで簡単につけたり消したりできる優れものだが、埋め込んだナノチップを探知されてしまえばそれまでだ。
うっかりして、雄吾は教員のひとりと眼が合った。
「高梁、挨拶が聞こえなかったな」
クラス担任の河田だ。
雄吾は小さい声で挨拶し、軽く会釈した。その間、無表情を崩さなかった。
酔っぱらいの言葉が頭を過ぎる。天下の――何だって?
「雄吾さん、おはようございます」学校の局地ネットとつながった端末眼鏡から、見守りAIのもったいぶった声音が聞こえてきた。「今日も頑張りましょう」
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