2nd inning
第6話 学校で一番の美少女
【今日は何時に帰るの】
母からのメールだ。
緊急用のアドレスを使い、だから雄吾が授業中にも関わらず仮相環境にいきなりポップアップしてきた。
仮相の問題用紙に眼を凝らしていた雄吾は驚いて字が歪んだ。
事情が呑み込めると、雄吾は思わず舌打ちをした。
こういった非常時のためのメールは、視線認識による既読確認設定が仕込まれている。この視線に込められた軽蔑もいっしょに通知してくれればいいのにと思った。
舌打ちが聞こえたのか、隣の席の男子が怪訝そうな顔で振り向いた。眼が合ったと思ったが、雄吾の片方の目線はとんでもないボールだまになっていたようだ。
相手はすぐに顔を逸らした。悪いことをしたという表情だった。
「そこまでだ」と教師が言った。崖に犯人を追い込んだ刑事のような口ぶりだ。「みんなペンを置け」
雄吾は角がよれた使い古しの電紙の上にタッチペンを置き、字が歪んだ箇所をさりげなく親指でこすった。指紋と皮膚の静電気とを感知した電紙から、すーっと文字が消えていく。
仮相環境に、チューターAIが採点した雄吾の解答用紙が現れた。
「八割とれてないやつは落第だ。いいか。落第だぞ」教師は生徒たちを見まわした。「今度の試験で降格したくなければ、もっと根をつめてやれ。まさか下位5%に自分が入るわけないと思っているやつはいないだろうな。そういうやつから落ちていくんだぞ」
雄吾は隠していたMLB中継の画面を再表示した。学内にいるあいだ、生徒の仮相環境は常に監視されているが、その眼をかいくぐるためのチートツールが先輩たちから連綿と受け継がれている。
「おれの知る限り、三年生のこの時期に普通校に行かされた生徒で、再び成功者の道に戻ってこれたやつはいない。うちのような特別校にいられるということがどれだけ素晴らしいことか、落ちた後に気づいても遅いんだよ」
ショートストップが好守を見せた。三遊間の打球をさばき、ジャンプしざまの送球を一塁へ。アウト。
今季の新人王候補一番手の若手選手だ。二十一歳での受賞となれば充分にすごいことだが、複数のAIによる群頭予想では十代のうちにそうなるはずだった。遺伝子審査によって八歳のときから、北米四大スポーツのいずれを選んでも殿堂入りすると予言されていたからだ。
「神に約束された才能」と呼ばれた彼は、現実のMLBドラフトで指名される一年前からナインス・ヘブン内で選手データの予約が開始された。雄吾は幸運にも抽選に当たり、今も彼を保有している。
父の助言がなければ、存在さえも知らなかったこの選手を獲得しようとは思わなかっただろう。しかし大人も機械も正しかった。新世紀、神様は約束を守るのだ。
では、約束のない者は?
「おまえたちは今、日本でいちばんの道を辿っている。それを忘れるな」教師の声はチャイムに上書きされていた。「くれぐれも、このクラスから降格者が出ないようにしよう。がんばれ」
話が終わったことに気づく者は少なかった。生徒たちはすでに帰り支度をしていた。みんな知っているのだ、教師も同じく普通校への降格があることを。大人の事情とやらに付き合うのは、利害が一致しているときだけだ。
ただ、同情すべき面がないわけではない。教師に対する保護者からの圧力といったら――事前の許可を得ていない親の来校に対し、不法侵入として警察を呼ぶことは珍しいことではなくなっている。
小倉一校では過去に「名付け親」だと言って入れ墨の男を差し向けた親もいたらしい。子どもが特別校にいるあいだ、優遇された扶養控除や「くにづくり昇進」の恩恵が家族にもたらされることは周知の事実だ。
鞄を抱えて廊下に出た雄吾に、栗田が声をかけてきた。「よう、今日も自習室か」
「試験期間だからな」
「その前からずっとやん」と栗田は呆れたように言った。「付き合い悪(わり)ぃねぇ。俺が女やったらぜぇったい、おまえみたいのとは別れるけ」
「はいはい。じゃあな」
背を向けた雄吾のうしろで、栗田はブゥッと口を鳴らした。
満員の自習室で雄吾は勉強に没頭した。窓に当たる雨の音が集中力を高めてくれるようだ。梅雨の始まりは試験期間のはじまりでもある。
全国どこの進学校でもそうだろうが、この時期はみんな本当によく勉強する。それも平日に限った話ではない。休日の校門前、傘を差して立ったまま勉強し、学校が開くのを待っているのはひとりやふたりではないのだ。
そういった連中と張り合うために、雄吾は雄吾でそれなりの努力はしているつもりだ。
ところが、雄吾の集中力は再び母のメールで散ってしまった。
事前に設定を変え、緊急用のアドレスでも反応しないようにしていたため、画面には通常通りの控えめな通知が出ただけだったが、雄吾には中の文章が想像できた。
【家でごはん食べたら】
席を立ち、休憩室に向かう。奥歯を噛みしめ、自習室の静ひつを壊してしまいそうなこの口を必死に抑えつけた。
勉強することの何が悪いというんだ。
東京でも福岡でも、特別校への入学を勧めたのは母だ。なのに、今になって、あんなメールを送ってきて。今まではそんなこと言わなかったのに。
その風の吹き回しがどういうものか、雄吾にはちゃんとわかっている。
料理好きなヴィクトルと楽しいマリーがやってきて、我が家の食卓がかつてないようなあたたかみにあふれているからだ。朱里江はその空気を害してほしくないのだ、片方の連れ子がほとんど家にいないという違和感によって。
雄吾に代わってキッシュやミートローフを平らげているその違和感は、今頃どこまで大きくなっているだろうか。
しかし、雄吾には培養肉のサンドがあった。売店で一番人気の商品だ。
休憩室には食品の成分に影響を与えない最新式のレンジが備えてあるから、まるでできたてのように熱々のものが食べられる。居合わせた同じ学年の女子たちがその場にいる全員に配ったお菓子もあった。
これ以上のものを望むことはないだろう。
試験が終わるまで、雄吾は絶対に生活リズムを変えなかった。
◇
席次結果は試験翌日に発表された。そこに出ている数字に雄吾はそれなりの達成感をおぼえたが、それもほんのいっときだった。
これからどうしようか、とほとんど途方に暮れる思いで掲示板を見上げた。
「さすがぁ雄吾くん」栗田が肩を叩いてきた。「総合九位ち、やるやん」
「ほんとほんと」と杉野も調子を合わせた。
雄吾は怪訝な顔を返した。「おまえ、五位じゃん」
「一位じゃなきゃ、何位でもいっしょだよ」と杉野。
「そう言っておまえ毎回特進入り断っとんのやろ? 腹立つー」栗田は杉野に固め技をかけた。「雄吾、特進の女連中とええ感じなったら紹介しぃよ」
雄吾は思わず、鼻からふっと息が出た。「もう、遅いよ」
そのとき、誰かが「ほんとかよ」と驚きの声を上げた。
周囲に騒然とした気配が広がるのを感じ、雄吾は掲示板に眼を戻した。
席次の一番上に見慣れない名前がある。
「朝倉……?」
五十番以下のランキング外だった前回から、一気にトップに躍り出たその名前を、雄吾は調べてみようと思った。端末眼鏡をかけ、校内限定アプリを起動して生徒一覧から検索をかける。
現れた生徒手帳の顔写真を見て、雄吾は「え?」と声が出た。
「なん?」
「いや、あの」ためらいつつ掲示板を指さした。「朝倉ってやつ」
栗田は、ああとうなずいた。「ゆったんね」
「ゆったん、っておまえ仲良いのか」
「全然」
栗田はあっけらかんと首を振り、教室に戻る道すがら、こう説明した。
「朝倉は男子のあいだでしょっちゅう話題になるけ、もう愛称呼びが普通なんよ」
「杉野も知ってるのか」
顔を逸らした杉野を、栗田が突っついた。「こいつは相当詳しいけね。朝倉が芸能事務所に出入りしよるとか、パールボールの大会でMVPとりよったとか、全部こいつ経由で情報が来よる」
「パールボールって」雄吾は思いがけない言葉の出現に驚いた。「うちの学校に、そんな部活ないだろ」
「そらぁ真球部はねぇっちゃ」
雄吾は顔をしかめた。「しんきゅう、って何」
「パールボールの日本語訳」
「どうしてそんなことも知らないんだよ」杉野がたまりかねた様子で言った。「朝倉は博多のクラブチームにいるんだよ。そのチームが賞金の出る大きな大会で三位になったんだ。高校大学でプレーしてきたセミプロたちに混じって、打ちまくったんだよ朝倉は。県のニュースにもとりあげられたのに見てないの? 数年後にはプロ入り間違いなしって言われてるんだぜ」
「おまえら……」雄吾は裏切りにあった気持ちでふたりの顔を見た。「そんなに詳しいなら、なんで今まで教えてくれなかったんだよ」
「なんでち、おまえが興味なさそうやったけ。なぁ?」
杉野はにやっとした。「雄吾はむっつりだったんだな」
「違う。俺はただ、パールボールについて知りたいだけだし、いきなりトップになるような人間がどんなやつか知りたいだけだ」
「本当かぁ?」と杉野はますますにやついた。
「でも、変やね」栗田は首をひねった。「朝倉、そんな勉強できんやったはずやけど」
杉野もうなずいた。「成績のことで、先生からよく注意されてるらしい。学外でスポーツとか読者モデルとかやってるのが悪いんだ、って」
雄吾はあの日、朝倉優姫が校長室から出てきたときのことを思い出した。
朝倉が話しかけてきたのは、彼女の人気者としての
いずれにせよ、話しかける相手は誰でもよかったのだろうし、あのときの感傷はすでに蒸散して六月の雨になってしまっただろう。彼女は見事に周囲の鼻をあかしたのだ。
「やけ、テストで一位とって見返したん? かっこよすぎやろ」と栗田は言った。
「この学校で一位なんて、そう簡単にとれるもんじゃないよ」お腹にいるときから家庭教師がついているという杉野は苦い顔をした。
「天才っち、ほんとにおるんやねぇ」と栗田は遠くを見て言った。
当の朝倉はといえば、学校に来ていなかった。
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