第69話 最終話『ゾンビを憐れむ歌』第二十二回


未舗装のけもの道が、林の奥へと続いていた。


 ついさっきまでサーチライトのように木立を照らしていた西日があっという間に弱まり、枝を揺らす風の音が、冷え冷えとした響きを運んできた。


 俺は愛美の姿を探して山中を歩き続けていた。金森のマンションで子分らしき若者に追い払われた後、駐車場が見える場所で張っていたところ、一台の車両が姿を現した。その後部席に愛美らしき姿があったのを、俺は見逃さなかった。


 すぐにタクシーを拾い、追跡が始まった。愛美を乗せた車両は市街地を抜け、峠道へと入り込んだ。俺は嫌な予感を覚えた。案の定、前方の車両は途中でいきなり、未舗装のけもの道へとハンドルを切った。


 タクシーの運転手は途中で「これ以上は無理です」と言い、俺は歩いて後を追う事にした。幸運にも歩き始めてほどなく、金森たちの乗った車両が乗り捨てられた形で見つかった。周囲は見渡す限り鬱蒼とした木立で、金森たちが降車した目的は暴行としか考えられなかった。


 俺は焦った。このまま日没を迎えてしまえば、何かが起こっていたとしても発見するのは難しくなる。俺は愛美が金森たちから逃げていることを祈った。


 俺はしばらく、けもの道に沿って歩いた。金森たちがその先にいるとは限らなかったが、林の中に入り込んだ挙句、自分が迷ってしまっては意味がない。俺は少しでも不審な動きがあればすぐに立ち止まれるよう、左右に気を配りながら進んで行った。


 けもの道は次第に幅が狭まり、ある地点でついに草むらの中に消滅した。俺はその時点で道もない山中に分け入って事を余儀なくされた。方向感覚はあてにならなかった。景色を頼りにでたらめに進んでゆくと、そう遠くない場所で枝を踏みしだく音が聞こえた。


 動物か?俺は耳を澄ませた。枝を踏む音は複数だった。間違いない、人間だ。俺は音のする方に向かって慎重に歩を進めていった。


 警察の人間でもない俺には金森たちに襲われた場合、身を守るすべがなかった。それでも愛美を見つけさえすれば、なんとかしてやるという強い思いがあった。


 ある距離まで近づいた時、枝を踏む音が消えた。気配に気づかれた、そう思った。俺は足を止め、周囲を見回した。一か所だけ、木立がまばらな方角があった。


 俺は思い切ってその方向に進んで行った。しばらく進んだところで突然、木立が途切れて巨大な倒木がゆく手を遮った。俺は少し考え、倒木をよじ登ることにした。幹の裂けめに指をかけ、胴体に上り切った瞬間、俺は信じがたい光景を目の当たりにした。


 倒木の向こう側に、男性が倒れていた。獣に食いちぎられたのか、脇腹が赤く染まっていた。俺は倒木から飛び降りると、倒れている男性に近づいた。男性は口を開け、目を見開いていた。息をしていないのは確実だった。


 俺は予想外の事態にパニックを起こしかけていた。これも金森たちの仕業だろうか。だとすれば、一刻も早く愛美を探し出さなければならない。俺は死体をそのままにし、再び林の中に入り込んだ。


 歩き始めてほどなく、どこからかすすり泣きのような声が聞こえてきた。女性の声だった。俺はもしやと思いつつ、声のする方に足を向けた。すると間もなく木立の間から、しゃがみ込んでいる小さな人影が見えた。愛美だった。


「窪沢っ」


 俺が叫ぶと、愛美がゆっくりとこちらを向いた。青ざめてはいるが、さほど憔悴はしていないようだった。


「先生……どうしてここに?」


 愛美がふらふらと立ち上がった。薄手のカットソーにデニムのスカートといういでたちは、到底山中を歩き回れるようなものではない。


「車で連れ去られるところを見たんだ。怪我はないか?」


 愛美は魂を抜かれたような瞳を俺に向けていた。着衣は汚れていたが、乱れてはいなかった。暴行を受けたような形跡はなく、俺は安堵した。


「歩けるか?歩けそうなら、連中が来ないうちに急いでここを出よう」


「連中って?」


 問いかけの意味がわからないのか、愛美はうつろな表情のまま、俺を見返した。


「君をここに連れてきた連中だよ。早く人気の多い所まで引き返さないと、またつかまってしまうぞ」


 俺はやり取りをしているうち、奇妙な違和感に捕われた。愛美の態度には切迫感や怯えと言った物がまるで見られなかった。恐怖のあまり思考が麻痺してしまったのだろうか。


「先生……こっちに来て」


 愛美が俺を手招きした。近づくと愛美はおもむろに俺の首に両手を回した。


「どうした……怖いのか?」


 愛美は俺の問いには答えず、いきなり顔を寄せると半ば強引に唇を求め始めた。


「おいっ、やめろっ!……どういうつもりだっ」


 俺は反射的に、愛美の身体を引き離そうとした。しかし、愛美は想像以上の強さで俺にしがみつくと、何度も強く唇を吸った。まずい、これはまともな精神状態じゃない。


「いいかげんにしないと……うっ」


 愛美は突如、唇を求めるのを止めた。身を引こうとして肩をつかんだ瞬間、愛美は信じられないような行動を取った。いきなり俺の首筋に噛みついたのだった。


「なんだっ……やめろっ」


 激しい痛みとともに、愛美の歯が俺の首に食い込んできた。野生の獣を思わせる勢いだった。俺は渾身の力を込めて愛美から逃れようとした。愛美の俺を捉える力は凄まじく、とても十代の少女の物とは思えなかった。


「うわあああっ」


 愛美の歯が首の皮を引きちぎり、俺は痛みのあまり絶叫した。いったい、何が彼女に取りついたというのだろう。このままでは殺されるかもしれない、そう思った時だった。


 突然、銃声が鳴り響いた。次の瞬間、俺の目の前で、額に穴を穿たれた愛美が、両目を驚愕に見開いたまま、ゆっくりと後ろざまに倒れていった。


「窪沢!」


 俺は叫ぶと、愛美の身体を抱き留めた。反射的に振り向くと、繁みの向こうに目つきの鋭い男性が拳銃を手に立っていた。


「なにをするんだ!」


 俺が非難すると、男性は無言で拳銃を俺に向けた。撃たれる、そう思った瞬間、轟音が聞こえ、男性の胸に穴が穿たれた。男性は胸を手で押さえると、その場に声もなくくずおれた。


 いったい、何が起こったんだ?


 俺は背後に目を向けた。愛美が倒れている場所のすぐ後ろに、黒っぽい服を着た男性が拳銃を手に立っていた。何が何だかわからず、俺はその場に膝をつくと、両手を上げた。


「もうやめてくれ。殺し合いはたくさんだ」


 男は拳銃をいったん、ポケットにしまった。安堵して両手を下ろしかけた俺の動きが次の瞬間、凍り付いた。男がコートの内ポケットから別の銃を取り出し、構えたのだった。


「な、何のつもりだ……」


 撃たれると思い身構えた瞬間、鈍い音がして大腿に痛みが走った。見ると、小型のシリンダーのような物が大腿に突き立っていた。どうやら一種の麻酔銃らしかった。


「くそっ……あんた一体、何者……だ」


 俺は急激に薄れてゆく意識の中で、問いを放った。男性は無言のまま、銃を納めると俺の方にゆっくりと歩み寄ってきた。何が起こっているのかまるで理解できなかった。


 愛美……なぜ君は……


 無数の問いかけが頭の中で渦を巻いた。やがて目の前が暗くなり、意識が闇に没した。


             〈第二十三回に続く〉

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