第6話 シー・ラブズ・ユー?(第六回)
『R』にユキヤが現れたのは、俺が味の薄いトマトジュースを飲み終えた時だった。
「お疲れ様」と俺が言うと、ユキヤは会釈してコーラをテーブルに置いた。
「なんだか身勝手なお願いで申し訳ない。初対面なのにずうずうしいおじさんだと思っただろう」
「いえ……俺もあなたと話してみたいと思ったから、良かったです」
「俺と?嫌なことを蒸し返されるとは思わなかったの?」
「それは思いましたけど……それ以上に、あなたに聞いてみたいことがあって」
「……というと?」
「さっき、兄貴にメールであなたの名前を出して聞いてみたんです。そしたら「その人とは会ったことがある。当時とは名字が違うが、同じ人ならたぶん、学校の先生だ」という返事が返ってきたんです。……そうなんですか?……記憶がないという話ですけど、兄貴の事、覚えてませんか?」
俺は返答に窮した。残念ながら、ユキヤの話から甦ってくる記憶はなかった。
「すまない、事故の後遺症で俺には過去十年分くらいの記憶がないんだ。だから兄さんと会っているのかもしれないが、正直言ってピンとこない。どこそこでいつ、と言われても思い出せない限りは同じだと思う」
期待外れだったのだろう、ユキヤはふっと虚無的な表情を見せ、深いため息をついた。
「そうでしたか。……それは、ある意味幸せかもしれない」
俺は考え込んだ。確かにそうかもしれないが、記憶がなければないで辛いこともある。しかし目の前の若者にそう告げたところで、共感を得られるはずもなかった。
「じゃあ、窪沢愛美さんの事件の事は、何一つ覚えていないと?」
俺は頷いた。受けもち生徒としての窪沢愛美の記憶はわずかだがある。だが、事件に関しては渦中にいたにもかかわらず、誰かに教えてもらわない限り、自分では今のところ何一つ思い出すことができないのだ。
「じゃあ、僕が知っている限りの事をお話しましょう。いいですか」
「頼む」
「窪沢愛美さんは事件当時、公立M中学の二年生でした。以前から知り合いだった大学生、
俺は俯き、かぶりを振った。ユキヤが述べた事実は知っていた。が、それは新聞記事などから後で知ったもので、覚えているわけではない。
「当時、兄の直文は高校二年生でした。兄は友人たちとバンドをやっていて、主犯格の金森とは音楽仲間を通じて知り合ったそうです。
金森が音楽に詳しかったこともあって、兄は金森とつるむ事が多くなりました。兄の親友でバンド仲間のマサルという少年が、金森が相当なワルであると聞きつけ、兄に付き合いをやめるよう助言しました。
しかし兄は金森にことのほか気に入られており、ズルズルと付き合いを続けていました。そんなある日、兄とマサルは金森からアパートに来るよう、命じられました。行ってみると金森はおらず、見たことのない少女がいました。
これが窪沢愛美です。やがて兄の携帯電話に電話がかかってきました。電話の主は金森で、家出した知り合いの女の子を二、三日預かることにしたので面倒を見てやってほしいとのことでした。
兄は正直、面倒なことになったと思ったそうです。面倒を見ると言っても何をどうしたらよいかわからず雑談をしていたら、突然、チャイムが鳴ったそうです。
戸口に出てドアスコープで来訪者を視認したところ、若い男性でした。身元を尋ねると、中学の教師だと名乗ったそうです。なんでも担任する生徒がこのマンションにいるとの情報を耳にしたので、確かめに来たとのことでした。
兄貴達は焦りました。金森からは誰が来ても絶対、追い返せと言われていたからです。兄はその担任教師に「ここにはいません」と嘘をつきました」
「もしかすると、その担任教師が……」
「たぶんあなただったと思います」|
俺は呻いた。俺は愛美を、あと一歩のところで救えなかったのだ。
「あなたが帰った後、しばらくしてまた金森から電話が来ました。女の子を連れて部屋を出ろという指示でした。兄貴とマサルはいよいよ本格的にヤバい状況だと感じたそうです。でもその時にはもう、引き返せない雰囲気でした。
兄貴によると、逃げることよりも少女を置き去りにすることの方が恐ろしかったそうです。金森からの指示は、彼女を誰にも見られないように駐車場まで連れて来いというものでした。
車に乗せられたら、もう逃げられない。そう思いながらも、兄貴たちは言われた通りするしかなかったそうです。駐車場では金森と二人の仲間が待っていました。兄貴とマサル、そして女の子は六人乗りのワゴン車に乗せられ、一緒に連れて行かれました」
「そこから山の中へ?」
「いえ。兄貴とマサルは、途中のファミレスで降ろされました。そしてこう言われたそうです。『この店でしばらく待っていろ。三十分くらいしたらリュウとタクという二人組が来るから、そいつらと二時間くらい雑談しろ』と。言われたとおりに待っていると、それらしい二人組が来たそうです。その二人は金森の子分たちと年恰好や服装がよく似ていました。つまり、兄貴とマサルはファミレスで金森たちのアリバイ作りをさせられたわけです」
「……ということは、お兄さんたちは直接、犯行にはかかわっていないと?」
「おそらくは。警察にもそう言ったんですが、結局、アリバイ作りに協力したということで従属犯にされてしまったんです。
兄貴とマサルは執行猶予がついたけど、世間からしたら刑務所にブチ込まれたのと大差ありません。外を歩いていたら「刑務所にいるはずじゃないのか」と後ろ指を指されることもしばしばでした。結局、犯行グループの一人という汚名はぬぐえなかったんです」
ユキヤはがっくりと肩を落とした。俺にはかける言葉がなかった。
「泉下さん。もしかしたらあなたも罪の意識にさいなまされてきたのかもしれない。……けど、結果的に忘れてしまったと言う事は、首尾よく過去から逃げられたという事でしょう。俺がうらやましいと言ったのは、そういう意味だったんです」
「そうか……おそらく、君の言う通りだろうな。教師の後、警官になったのは少しでも真実と向き合おうという気持ちの表れだったのかもしれない。だが、結果的にそれも続かなかった。俺はそうやってこの十年間、事実から逃げ続けてきたんだ」
「でも俺の話を聞こうとしましたよね?過去を放っておくことができなくなって」
「ああ、そうだ。事件当日、被害者のすぐ近くにいたとなれば、なおのことだ」
「俺も同じです。もう事件の事は忘れたい、そう思う一方でなぜ愛美さんは殺されなきゃならなかったのか、真相を知りたいという気持ちもどこかにあるんです」
「もちろん、お兄さんも知らないんだろうな」
「そう聞いています。でもあなたのことは兄貴に話しておきますね。もしかしたら、あなたと話がしたいというかもしれないので」
「やはり犯人から直接、話を聞くしかなさそうだな」
「金森は仮釈放後も、殺害に関しては口を閉ざし続けているという話です」
「なぜなんだろう。殺したのは間違いないんだろう?」
「それが……実は殺人そのものを疑っている人もいるんです」
「どういうことだい。事故か、自殺の疑いでもあると?」
「それについてはまたの機会に。……とにかく、俺が兄貴から聞いた話はこれだけです」
「わかった、どうもありがとう。色々なことがわかって良かった。いいことも悪いことも」
「これだけ詳しい話をしたのは、ドラムのキエフ以外ではあなたが初めてです」
ユキヤはそう言って太い息を吐き出すと、椅子の背にぐったりと体を預けた。
「気の進まないことをさせてしまって申し訳ない。……ところで、稲本彩音さんという女の子を知っているね?君のファンらしいんだが」
「ええ、知ってます。ファンって言うか、楽屋にしょっちゅう訪ねてきてくれる子です。連絡先も交換してる。友達かな」
「その彩音さんが……」
そこまで言いかけた時だった。ユキヤの目線が、俺の背後で焦点を結んだ。振り返ると、ドリンクを手にした背の高い若者が立っていた。ドラムのキエフとかいう青年だった。
「キエフ……」
「演奏に間に合わなくてすまない」
キエフは平坦な口調で言った。ユキヤは黙って頷いた。よくあることなのだろう。
「キエフ君、だったね?俺を覚えているかい?」
俺はやりとりの隙をついて、キエフに話しかけた。キエフがはっとしたように俺を見た。
「たしか『グレイトフル・サッド』で……」
キエフが目を見開いた。俺は頷いた。『グレイトフル・サッド』で小競り合いをしたことを、どうやら思い出したらしい。
「あの時は興奮して、乱暴なことをしちゃいました。身体はもう、大丈夫なんですか」
キエフは先日とはうって変わって殊勝な態度を見せた。手首の事を言っているのだろう。俺は「どうってことないよ」と腕を振り回して見せた。キエフの口元がわずかに緩んだ。
「……ところで、ユキヤ。お前に言いたいことがあって、来たんだ」
「言いたいこと?」
「今日の演奏の後、彩音さんにかなり冷たい応対をしたそうじゃないか。どうしてだ?」
「どうしてって……冷たい応対なんかした覚えはないぞ」
「じゃあ、なんであんなに落ち込んでるんだ。メールをしても『今日は返信できない』っていうしさ。どう考えても、お前が原因としか思えないんだよ」
キエフは声を荒げた。ユキヤは一瞬、気圧されたように身を引いた。
「なぜそう思うんだ。他に理由があるかもしれないだろう」
ユキヤが憤然と言い放った。キエフはそれはない、というように強くかぶりを振った。
「はっきり聞いたんだよ。ユキヤ君は、私が聞きに来ると迷惑に感じるのかなって」
「そんなことあるわけない。考えすぎだ」
「じゃあなぜ、もっと話す機会を作ってあげない?それほど忙しいようには見えないがな」
「……苦手なんだよ、女の子は。あれこれ聞かれてもうまく答えられないしな」
「それは単に親しくなるのを恐れているだけだろう。お前の態度がよくないんだよ」
「一方的に興味を持たれても困る」
「彩音さんのことが嫌いなのか」
「…………」
ユキヤは黙り込んだ。キエフはしょうがないな、と言わんばかりに肩をすくめて見せた。
「……実は今、彼女に付きまとっている男がいる。そのことで相談に乗って欲しいそうだ」
「付きまとっている男?どういうことだ」
付け回す男、という言葉に、ユキヤはそれまでとはうって変わった反応を見せた。
「つまり、ストーカーされてるって言う事だよ。気になるなら直接、聞くんだな」
「もしそれが本当なら、放っておけないな」
「今まで放っておいて、よく言うぜ。とにかく、明日でもメールか電話してやれよ」
「ああ……わかった」
ユキヤはそれまでのかたくなな態度が嘘のように、興奮した面持ちになっていた。
俺の脳裏にふと、あの夜の彩音の変装が思い浮かんだ。付け髭にサングラスはもしかすると身内に見つからないための変装ではなく、ストーカーに気づかれずに遊ぶためのものだったのではないだろうか。いずれにせよ、こうなってくるともはや俺の出る幕はない。
「じゃあお二人さん、俺はこの辺で失礼するよ。ユキヤ君、興味深い話をありがとう」
俺はユキヤとキエフをその場に残し、ファミレスを後にした。バンドのメンバーに女が絡むと、それだけでもう事件の始まりだ。面倒に巻き込まれないうちに、逃げるに限る。
〈第七話に続く〉
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