彼氏と彼女⑥
花火も終わり、屋形船から降りた僕たちは、自然を手を絡めて歩を進めた。初めは緊張したせいか、オイルの切れたブリキのようなぎこちなさが足を縺れさせることもあったが、それも次第に呼吸が重なり、見事に解消されていった。
「暑いね」
夏なのだから当たり前の話だけれども、そう言わずにはいられなかった。
彼女もそうだね、と小さく呟く。
船を降りてからの僕たちの口数は明らかに減った。しかし、それは決して険悪な雰囲気だからではない。祭りの喧騒もすべて遮断され、この世界に二人だけ取り残されたような感覚が、互いの意思のようなものが手に取るように伝わり、言葉など必要なかったからだ。
しばらく無言の会話を続けていると妙な人物に出会った。
ウッドベルのオーナーである。
日本人の両親にも関わらず、堀が深く色白なアメリカ人のような特徴的な顔立ちをしたオーナーをさすがに見間違えるはずもない。
「あれ、オーナーじゃない?」
指差すと清美も目を見開いて驚いてみせた。
僕と清美に屋形船を薦めたオーナーは、あの時花火大会へ行けなくなったと言っていたのに――。
「あ、見つかってしまいましたか」
声を掛けられたオーナーはあっけらかんとした様子で笑って応えた。
外国人風の顔立ちなのに、何故か似合いすぎている浴衣の袖を靡かせる姿は大人の色気が悶々と漂う。
「なんで、オーナーがここにいるんですか?」
「何故って……祭りを楽しむのは日本人の嗜みの一つでしょう?」
「それを聞いているんじゃなくて、以前は行けなくなったって言っていたじゃないですか」
「ああ、そのことですか」
オーナーは納得したのか手をぽん、と叩いた。
「あれは、屋形船のことです。夏祭りに行けなくなったとは言っていませんよ」
「どういうことですか」
「どうもこうも、言葉の通りですが。屋形船を予約していたのはもちろん事実です。しかし、屋台の手伝いを頼まれてしまったので、やむなくお二人に譲ったんです」
オーナーは隣の屋台を指差した。夏祭りにはオーソドックスであるかき氷屋だった。
「ここのコーヒー味を私の店のコーヒーで提供しているのです」
確かに屋台のメニューには『珈琲』と太文字のマジックで掲げられていた。
「ですから屋形船には残念ながら乗ることは出来なかった、というわけです」
「そういうことだったんですね」
「しかし、なんだかんだ上手くいったようですね」
「え?」
オーナーの意味深な発言に僕は眉根をひそめる。
「上手くいったって――?」
「いやあ、あの屋形船は私たち夫婦の縁結びのものでもあったのです。だからこそ、あなたたちにも是非乗船していただきたかった。そして、その結果として私としても喜ばしい結果になったようで何よりです」
全てはオーナーの掌の上で踊っていたというわけか。オーナーには僕たち自身が理解していない想いに気付き、温情の名の元にこの屋形船を紹介した。騙されたといえば、語弊があるかもしれないが、不思議と嫌な気持ちはなく、感謝の気持ちしか存在しなかった。
「ありがとうございました」
僕たちは深々と頭を下げた。
「いやいや、私はきっかけを作ったに過ぎません。そこから一歩踏み出したのはあなたたち二人ですよ。私からも感謝を申し上げたい。あなたたちは、私の恩人でもあり、数少ない常連のお客様でもある。そんな二人が結ばれる姿は私も嬉しい。こんな老いぼれに幸せな空間を与えてくれてありがとう」
「詩人みたいな台詞ですね」
僕のわざとらしい揶揄にもオーナーは快活に笑って返した。
「私は昔、小説家志望でしたからね。あなたたちくらいの年の頃には倍ほどの読書量だったと自負しております。だからこそ、二人が私の店で読書をする姿は昔の自分を見ているようで、とても感慨深かった。だから二人にお願いがあります」
オーナーは僕と清美の手を握った。分厚い掌は水分量が少ないせいか、かさついていたが温もりに溢れていた。
「どうか、お二人の仲睦まじいお姿をウッドベルでも見せてくださいね。シャイなお二人のことです。どうせいつもと変わらないお付き合いをするのでしょう。それはそれで構いませんが、私としては今のあなたたちの姿があの店の中でみたいものです」
僕たちはオーナーと別れ、しばらく屋台を楽しんだ後、名残惜しさを堪えながらも、その日を終えた。
しかし、本当に名残惜しく思うべきはそこではなかった。
あの時のオーナーとの約束を僕たちは果たせていないのだから――。
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