彼氏と彼女⑤
花火大会当日は案の定と言っていいほどに人で溢れていた。恐らく今この瞬間、この土地は数ミリ単位で沈んでいるのではないだろうか。そう思うに相応しい人の数だった。
清美と待ち合わせた時間にはまだ三十分ほど猶予がある。これといってすることもないので、慣れるという名目で屋台が立ち並ぶ通りを歩いてみることにした。
焼きそばやたこ焼といった定番はもちろん、たこせんと呼ばれるものやチョコバナナといった屋台ならではの店が隙間なく両脇に構えている。僕は美術館で鑑賞するような感覚で左右に顔を振りながら、店名をなぞっていく。
中央に設けられた石畳の通りには甚平や浴衣に身を包んだ客はもちろん、老若男女、外国人も含めた様々な人種がぞろぞろと蠢いていたが、案外歩いてみると、縫うように歩くことは難しいことではなかった。あっという間に通りの終着点にまで辿ることができ、言い知れぬ達成感、みたいなものが僕の心に芽生え始めた。
「うわあ、やっぱり人が多いね」
後ろから突如声を掛けられたため、わっと変な声を出してしまった。
振り返ると浴衣に身を包んだ清美がこちらを見てくすくすと口元を押さえている。桃色をベースとした生地に和柄の大きな花弁が清美の柔らかな表情とぴったりだった。
「そんな驚かなくても」
清美はくすくすと口元を押さえて笑った。
「どう? 似合う?」
袖口を軽くつまみ、両手を肩の半分の高さまで上げて、ポージングをしてみせた。
「うん……まあ似合うんじゃない……かな」
「ええ、すごく微妙な反応じゃん」
深いため息を吐く清美に、慌てて否定をする。
「そういうつもりじゃないんだ。浴衣姿についての感想なんて初めてだったから」
「屋形船に乗るなら、それなりのTPOを考えた方がいいのかなあって思ったんだけど」
改めて自分の身なりを確認するとグレーのTシャツにジーンズといったみすぼらしさこの上ない格好に、急激な恥ずかしさを覚えた。
「大丈夫でしょ。鏑木くんらしいよ」
「TPOを弁えないところが?」
「そういう皮肉めいた言葉が簡単に出てくるところも含めて。まあ今更着替えに戻るわけにもいかないでしょう」
着替えに戻ったところで、屋形船や花火大会に適した服装は持ち合わせてなどいない。
「だから、まずは楽しみましょう」
「わかった。ありがとう」
楽しもう、という言葉で少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
「せっかくだから屋台で何か食べる?」
腕時計を覗くと、時刻は花火大会の一時間前を指している。元々は、お互い苦手な人混みに少しでも慣れさせるために早めに集まっておこうというのが主旨としてある。
「そうだね。結構いろんな店があったよ」
「そっかあ。やっぱり定番の焼きそばやたこ焼を買ってみる?」
「いいねえ。じゃあまずはたこ焼にしよう」
僕たちは屋台で八個入りを選び、分け合いながら口に放った。それはどこにでも売っている味と対して大きく変わりはしなかったのかもしれないが、今まで食べたどのたこ焼よりも僕には美味しく感じた。
「人が多くなってきたね」
屋台をハシゴしながら、屋形船乗り場まで歩いていたが、花火大会の時間に近付いてきたせいか、時が経つに連れて人混みはみるみるうちに増えていった。
「ああ。大丈夫?」
「ん、大丈夫」
入り乱れる足並みの中で、下駄では歩くのに不向きだった。
やっとの想いで屋台船乗り場に着いた時には定刻のぎりぎりとなってしまった。中に入ってみると、五十人程度が余裕で入れる縦長の室内は天井も高く、思いの外快適だった。中央に設置された机には瓶ビールとグラスが早くも並べられている。
先に乗船していた一部の客は、まだ出航していないのにどんちゃん騒ぎを繰り広げている。
「お酒……どうする?」
僕たちが座った席にも当然のように瓶ビールが置かれている。
「まあ、別に呑めなくはないけど」
「じゃあ……呑んじゃいますか」
成人を迎えているのだから問題は無い。僕たちは瓶ビールをあけ、グラスに注いだ。サークルに所属していない僕たちは新歓コンパと呼ばれる飲み会に参加したことはなかった。それでも友人と呑むこともあるため、それなりにアルコールには自信があった。
「乾杯」
グラスを軽く鳴らし、喉に流し込む。
気分が高揚していて気付かなかったが、やはり人混みに揉まれたことや歩き続けたことで疲れていたのか、アルコールが沁み入るほどに心地よかった。
「いやあ、美味しいね」
清美はビールの泡で白髭を蓄えながら歯を見せて笑った。
僕もきっと同じような顔をしていたのだろう。二人で声を出して笑いあった。
しばらくすると、船が出航し、鵜飼いが始まった。県民でありながら、一度も見たことのなかったそれは、初めて見ると、幻想的でその空間だけが切り取られ、時の流れが緩やかになっているようだった。鵜匠とよばれる熟練の手捌きにより操られる鵜が鮎を飲み込んでいく。一連の動作がスムーズで淀みがなかった。
おお、と拍手が飛び交い、僕たちもそれに倣って拍手をする。
その時だった。僕の背中にびしゃっと冷たい液体が飛びかかってきた。汗にしては局所的な大粒である。空気と混じりあっていたが、ビールであることは明らかだった。飛んできた方向に視線を向けると、絵に描いたような小肥りの中年が下品な笑みを僕たちに向けていた。
「悪い悪い。大丈夫だったかい」
謝罪の意思が微塵も感じられない中年男は、僕の肩を叩きながら掌を上に上げた。
「ああ、大丈夫ですよ」
酔っぱらいと絡んだところで、得るものなど何もない。僕は適当にあしらいながら、話を切り上げようとする。しかし、男はしつこく話しかけてきた。
「かわいい彼女を連れて幸せそうだねえ」
「ビールをかけられても平然としていられるなんて大した器のでかさだよ」
「いや、それとも何か? ただビビってるだけかな?」
「いるんだよねえ。彼女の前で強がってはみせるけど、内心ではがたがた震えてやんのよ」
よくもまあ、薄っぺらなセンテンスが次々と出てくるものだと、呆れを通り越して感心さえ芽生えた。言葉を発しようと努力する赤子のようにも思え、これが親の気持ちか、と感じたが、残念ながら目の前にいるのは中年の小肥りの男である。どう考えても僕の勘違いだろう。
僕が終始無言を貫いていると、男は飽きてきたのか、清美にまで触手を伸ばしてきた。
「こんなぶっきらぼうな彼氏よりも俺たちと一緒に遊ばないかい?」
「ちょっと、いい加減に……」
「ああ? さっきまでシカトこいてたくせに急にしゃしゃり出てくるんじゃねえよ」
先程までは笑顔で絡んでいた中年男が声を低くして、表情を一変させた。
僕の胸ぐらを掴み、ぐっと顔を近づける。アルコール臭が口を開く度に顔に当たり、夏場に暖房器具を稼働しているような不快感だった。
「いいですよ。呑みましょう」
唐突に清美が答えた。僕は聞き間違いかと、彼女の顔をまじまじと見る。
「鈴原……さん?」
「私ももっと呑みたいと思っていたので全然構いませんよ」
「いやあ、お姉ちゃんは分かる口じゃないか」
中年男は笑顔で手を叩いた。
「じゃあこっちへおいで」
僕を手で押し退け、彼女が座れるスペースを空けた。
僕から離れる際、清美は「私に任せて」と耳打ちをした。え? と問いかける間もなく彼女は中年男の隣に座った。僕はどうすることも出来ず、一人でビールを注ぎ、鵜飼いの様子を眺めるより他なかった。
その間も後方から清美の笑い声が聞こえる。ビールの酔いに任せて何もかも忘れてしまうことができれば、どれだけ幸せだろう。それが出来ずに、友人の笑い声を肴に酒を呷るというのは、どれだけ退屈なことだろう。
そんな虚しい時間を過ごしていると、突如女性の悲鳴が屋形船を揺らした。
その声の主は清美だったわけだが、悲鳴を上げた清美よりも、中年男の方が明らかに狼狽している。
「え、いや、急にどうしたんだい?」
「止めてください。怖いです」
彼女は中年男を押し倒し、僕のところへ逃げてきた。
そういうことか、と理解できたのは、中年男が取り押さえられ、周りの乗客が清美へ声を掛けられている光景と清美の清々しい笑顔を見てからだった。
あの中年男はまんまと清美にハメられたのだ。
祭りというイベントの力も借り、アルコールも大分回っていた中年男のマナーとTPOを軽んじた大声で執拗に絡む姿は、他の乗客にも無様に晒されていた。しかし、大声で迷惑を被るという点だけでは、一つ押しが弱い。ただそれだけで船を引き返すわけにもいかないし、中年男を船から引きずり落とすには、より有効な事実を突きつける必要があったのだ。それが痴漢行為という事件性の高いものだったというわけだ。
「作戦成功だね」
清美はやり遂げた表情で僕に笑いかけた。
僕もその時、笑うことが出来ていれば良かったのだろうけど、どうしてもそれは出来なかった。それどころか涙がとめどなく流れ落ち、僕の頬を濡らす。
「本当は怒ってやりたかったんだ。僕と鈴原さんとあの中年男に」
鼻声の僕は端から見れば、十中八九不細工な表情だったと思う。それでもお構い無しに話を続ける。
「あのおじさんは、僕たちの時間に割って入ってきた無粋な輩だったし、鈴原さんも勝手にあんなおじさんのところへ行ってしまうし、でも何よりそんなことをさせてしまった自分自身に一番腹が立つ。力であしらうことだってできたけれども、周囲を巻き込みたくない理由で、一番巻き込んではいけない人を巻き込んでしまった。そして、あんな危険な役回りまでさせてしまった」
息継ぐ間もなく話し抜けた僕は、ごめん、という謝罪の言葉で話を結んだ。
清美は黙って僕の話を聞いていた。そして話終えると、僕の手を握った。握った手は小刻みに震えていて、彼女の気持ちは手に取るようにわかった。
「鈴原さん」
顔をあげ、清美をまっすぐに見る。
「こんな盛大に格好悪い僕だけど、僕は鈴原さんが好きだ」
僕の一世一代の告白に、清美はぷっと吹き出して笑った。
「普通、このタイミングで言うかなあ」
笑いのツボに入ったのか、腹を抱えて、転げるように笑う清美を僕は初めて見た。
「そんなに笑うところだったかな」
「だってさ、格好悪いところを見せてしまったこのタイミングでの告白ってなかなか見ないでしょう」
「確かに……。やっぱ変かな?」
「ううん。あなたらしいわ」
涙を拭きながら首を横に振る。
「それに私はあなたの盛大に格好いいところを知っているし。今回だって格好良かったよ」
「今回? どこが?」
「まあそれはいいじゃない。それに鏑木くんが聞きたいのはそこじゃないでしょ」
「まあ、そうだけど……」
僕と清美は揃って姿勢を正した。
「鏑木くん。私は――」
その瞬間、船の外からどん、と大きな破裂音が船内にいる人々の耳を劈き、後光のような目映い光が人々の目を突いた。
――花火だ。
僕たちを除く乗客全員が光と音の原産地へ目を凝らす。
「――――」
花火の音と歓声や拍手に清美の言葉がかき消され、彼女の言葉は僕の耳にしか届かない。
そして、僕たちは祝福の花火が咲き誇るなか、唇を重ねあった。
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