彼氏と彼女④
初めて清美と花火大会へ行ったのは、まだ清美と付き合う前の話だった。僕の記憶が正しければ、何食わぬ顔でオーナーが僕たちに花火大会の参加を勧めてきたことがきっかけだった。
「――花火大会、ですか?」
この話を聞いた瞬間、僕は怪訝な顔をしてみせた。
そもそも人混みが大の苦手なので、花火大会などといった祭り事には、幼かった頃を除けば、一度だって行ったことがなかった。別に行きたくて行かないわけではない。行きたくないから行かないのだ。強がりに聞こえるかもしれないけれど。
「この花火大会、川に屋形船を流して花火を観覧することができるのですが、そちらはいかがですか? もともと私が家内と行く予定だったのですが、急用で行けなくなってしまい、予約がもったいないので、お二人に行っていただけるのであれば、幸いなんですが」
オーナー曰く、屋形船から鵜飼いの観覧もでき、一石二鳥のイベントらしく、毎年予約できずに涙を飲んでいたとのことだ。だからこそ、そのままキャンセルするくらいなら、知人が代わりに楽しんできてくれれば嬉しい、ということで、僕たちに白羽の矢が立ったらしい。
「でも、何で僕たちなんですか?」
「それは、まあ私なりの気持ち、ということで察してください」
オーナーにしては珍しく歯切れの悪い回答だったが、僕は別段、気にも留めずに「とりあえず鈴原さんに聞いてみます。あまり期待せずに待っていてくださいね」と告げた。
翌日、ウッドベルに行くと、彼女はいつもの席で頬杖をつきながら本を読んでいた。
彼女の肩を叩き、うっす、と軽く挨拶を交わす。振り返った清美は、ああ、とつれない挨拶を返し、隣の席の鞄を退けた。
あの騒動以降、僕たちはこのように隣同士で読書をする間柄にまで発展した――とはいっても、別段男女の仲に発展する可能性を暗に仄めかしているわけではない。少なくとも僕は、同じ趣味を持ち合わせた同世代の友人、という感覚だった。人付き合いがそもそも苦手な僕にとって、さらに次元の違う恋人としての付き合いなど想像できるはずがなかった。
「オーナーから何か話聞いてない?」
僕はまず、遠回しに話を振ってみることにした。
「え? いいや。何も聞いてないけど」
清美は本から顔を上げることもなく、無下に答えた。正直に言って、彼女のこのさっぱりとした対応は嫌いではない。
「なんか、オーナーから花火大会の日の屋台舟に乗れるイベントに僕ら二人で行かないかって勧められたんだけど」
「――花火大会?」
顔をすっと上げ、怪訝な顔を僕に向けた。恐らく、僕も彼女と瓜二つの表情をオーナーに向けていたのだろう。そう考えると、途端に申し訳ない気持ちになった。
「鏑木くんは花火大会行ったことあるの?」
彼女は目を細めて僕に尋ねる。
「まあ、小さい頃は行ったことあるけど、中学校に入ってくらいからは行ってないかなあ」
「私もそれくらいかなあ。人が多すぎて、花火どころじゃないんだよね」
「そうそう、それで自然と行かなくなったんだよね」
変なところで僕たちは気が合う。これはやっぱりキャンセルだな。僕はオーナーにどうやって謝ろうか逡巡していると、清美が意外な一言を告げた。
「そっかあ、つまり五年振りになるのかあ」
僕は、ん? と首を傾げた。僕には『つまり』の意味も、『五年振り』の意図も理解できずに呆然とする。
「え? 行くの?」
「え? 行かないの?」
「いや、だって人混みが苦手だって言うからてっきり……」
「屋形船なんでしょ? そりゃあ屋形船の中が人混みに溢れかえっているのなら、御免被りたいけど、もしそうなら、そもそも沈んじゃうんじゃない?」
人混みに溢れかえった屋形船を想像してみる。アルコールが回ったは客の息と汗が混じり、魑魅魍魎にも似た様相を呈することだろう。確かにそれは、僕も嫌だ。
「それにせっかく鏑木くんが誘ってくれたんだから無下にはできないでしょう」
彼女はにこっと口角を上げ、歯を見せて笑った。穂波のような白い歯が、僕を心を夏色に染め上げる。
「それは――」
言いかけたところで、僕は口を噤んだ。
「オーナーに言ってくるよ」
席を立ち、足早にカウンターへと向かう。
それはどちらの誘いのことを言っているの――?
そんな言葉が口から飛び出しそうになるのを必死に堪えたが、これではまるで僕が気にしているみたいではないか。彼女の言葉を。彼女の想いを。一挙手一投足に振り回される今の自分を情けなくも心地よいと思っていることが、自分のことのはずなのに、まるで理解できない。この感情はなんなのだろうか。
これは今まで生きてきた二十年近くでは習わなかった難題だった。高校や大学受験に設問として出てこなかったことに心から安堵する。
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