【マイネ・クライネの罰】
――最近、奇妙だとスノーはふと思った。
不老不死になってから数日。相変わらず姿をごまかし、不老不死になったことを隠しながら生きているのだが、どこかがおかしい。
そう、まるで何かを忘れていそうな――……。
「スノー!」
その時、聞きなれた声がして我に返る。
ぱたぱたと駆け寄ってくる少女を、だが一瞬、誰だろうと思いながら立ち止まり。
「……あ、ああ、リリィか」
ようやく至近距離になって、その存在を思い出した。
最近、彼女の事を忘れる機会が増えたような気がする。
この学院では一番多く付き合いがある彼女の事を忘れるなんて、どうかしているのか。
「うん。一緒に行きましょ。次、実習でしょ?」
当然のように腕を取る少女の体温は自分より高い。それこそが、人と自分との違いになってもいた。
以前のようには振りほどかず、スノーもただ頷く。
「……ああ」
この先、彼女とは何年一緒に居られるだろうか。
彼女とは永遠を生きられない。今や彼女だけが唯一の理解者だ。クレイスは元凶なので、どちらかといえば憎悪の対象となっている。
彼女は、徐々にスノーの中で特別な存在になりつつあった。
だからこそ、彼女を忘れるということが認められなくてそれを口にする。
「……なぁ、オレ、最近変なんだよ」
一緒に歩きながら、スノーは呟くように言う。
「え?」
「たまに、お前の事を忘れるんだ。さっきも一瞬、誰だっけ、って」
「……え」
スノーの言葉を聞いたリリィは、一瞬悲しそうな顔をした。
慌てて、スノーは取り繕うように続ける。
「あ、いや、悪い。きっと、この体になったせいで影響が出てるんだろ。だから、落ち着くまで我慢してくれよな」
「ううん、いいの。無理に覚えようとしなくても」
首を横に振って、リリィがそう返し、次いでへらっと笑いながら続ける。
「あたしも、時々自分のことを忘れちゃうもん。あたし、誰だっけ? って」
「……おいおい、大丈夫か?」
さすがに心配になったスノーがそう問うと、彼女は頷く。
「スノーのことは覚えてるから、大丈夫よ」
「そういう問題じゃねーだろ……」
自分も他人も自分を忘れる。そんなのは、いくらスノーでもご免だ。
スノーは苦い思いをしながら、少女と一緒に歩く。
この穏やかな時間さえも忘れたくはないと思いながら、スノーはまた、忘れてしまうのだが。
※ ※ ※
自分を忘れられていく。消されていく。少しずつ、確実に、存在を削り取られていく。
それを実感しても、リリィは抗うつもりなど無かった。
「えー……この問題を……ん? 誰だね君……あ、ああ、リリィ君か」
「はい」
教師が一瞬怪訝そうな顔をしてリリィを見、次いで思い出したように名前を呼ぶ。
心配そうに自分を見るスノーに、答えて座った後、大丈夫と口をぱくぱくさせて返した。
それは日を追うごとに増えていき、ある日。
「……おや、どなたですか?」
廊下で会った兄にさえもそう問われてしまったリリィは、さすがに苦笑を浮かべるしかなくなっていた。
今は傍にスノーが居ない。もし居たら、きっと怒って彼に掴みかかるなりしてくれていただろう。
だが、それよりも早く、終焉は迫っているようだ。
「あーあ……早かったなぁ。もう潮時なんて」
「……リリィ?」
ようやく思い出したらしいクレイスだが、さすがに自分の妹を忘れていた事には違和感を抱いたようで、妹に困惑混じりに問うた。
「あなた、何をしたのですか?」
「あたしはもう、何もしないわ。……どんな形であれ、私の願いは終わったから」
「……なるほど。報いというのは、これなのですね」
妹の答えですぐに意味を理解したらしいクレイスだが、すぐに苦い顔をする。
「多分ね。神の罰がどういうものかなんて、誰も知らない。禁忌を犯した者にしか、ね。つまりそういう事、なんでしょ。あたしの場合は、だけど」
別の禁忌を犯したクレイスや、巻き添えを食らったスノーがどうなるかは分からない。だが、相応の罰は下るはずだ。それが、スノーにとって苦痛を伴うものでないといいのだが。
「他人の心配などしていないで、あなたは自分の事くらい、記録に残したらどうですか? このままでは、誰もがあなたの存在を忘れ、あなたは――」
「この世界そのものからも消される、かしらね。でも、それがどうしたっていうの? 大事な人の為に禁忌を犯した時から、覚悟くらい出来てるわよ」
受け入れる覚悟。抗わない覚悟。そうでもしなければ、禁忌を犯したりなど出来はしない。兄はその辺、覚悟も何もなさそうだが。お気楽なものだ。
「お別れの準備、しなくちゃならないわね」
「……あなたは、それで本当にいいのですか? リリィ」
後悔は、未練は無いのかと兄が訴える。人の心は多少なりとも残っていたようだ。
だが、リリィにその言葉は通らない。
「大丈夫よ。だって、あたしを忘れても、スノーは生きられるんだもの」
平凡で、普通で、何も期待をかけられなかった。それも運命の一つだったのだろう。
だが、そんな自分でも、出来る事があった。例え神の領域に触れた事であっても、成し遂げられた。
忘れないうちに、と、リリィはポケットからリモワを出す。いつか兄に、絶対に思い知らせようと思っていたものだ。
「はい、これ。あげる」
渡されたリモワを受け取った兄は、怪訝な顔から驚愕の顔へと変わる。
それを見届けたリリィは、恐らく初めて見せるであろう柔らかい笑顔を向けて、告げた。
「じゃあね、お兄ちゃん。まずはあなたに、さよなら」
「待ちなさい、リリィ! これは……あなたの……!!」
兄の言葉は届かない。もうリリィに時間は残っていないのだから。
※ ※ ※
――この数日、リリィを見ていない。
スノーはそれに気付いて、クレイスを探し、問い詰めた。
「どういうことだ! あいつはどこに行ったんだよ!?」
「……あいつ?」
きょとんとする彼に、スノーは怒りをそのままぶつける。
「お前の妹だよ! リリィだ! まさか忘れたとか、お前まで言うつもりか!」
言われて、はたと彼も思い出したような顔をし、そして頷く。
「……ああ、そうですね。忘れるのは当然だと、彼女は言っていました」
「何でだよ! リリィを忘れるのは、オレの罰じゃないのか!?」
最初は、自分だけが忘れるものだと思っていた。
だが、違うのだ。自分も、他の生徒も、教師さえも、彼女の事を時折本当に忘れている。そんな事が、あっていいはずがないのに。
思いだす度に彼女は居らず、だがいつもなら鬱陶しい程に隣に居た彼女を、スノーは探した。学院の中をあちこち。それでも、彼女は見つからなくて、兄であるクレイスを見付けて、詰め寄ったのだ。
「あなたではなく、彼女の罰です。彼女はもうじき、この世界から居なくなるらしいですよ」
彼は悲しむでもなくそう冷静に答える。
当然と受け入れているその態度が理解出来ずに、スノーはまた怒鳴った。
「……っ、何でだ!! そんなの、あってたまるかよ!!」
自分は何も知らない。彼女は必要最低限の情報しか教えてくれなかったから。
そんなの、この先いつか知れるだろうと思っていたのに。それは、叶わないのか。
「……良かったら、見ますか? リリィはこれを使って真実を私に伝えました。だからこそ私は、こうなったようですが」
ころりとした赤い玉が、クレイスの手のひらに転がっている。スノーは迷わずそれをひったくった。
回想にも似たその記憶を見て――愕然とする。
今とは違うクレイスの口調。貫かれて死んだ自分。そして、その血だまりに手を浸し、禁忌を使った彼女自身の記憶が、鮮明に残っていた。
「……馬鹿かよ。他人の為に禁忌を使うなんて……本当、馬鹿じゃ、ねえの」
ぎゅっとリモワを握りしめたスノーは呟く。
「あんたは、いいのかよ。あんたのせいで、リリィは消えるって事だぞ!」
「彼女は、助けを乞いませんでした。むしろ、邪魔をするなと言われた程です」
「だからって……! 実の妹だぞ! 助けようと思わないのか!?」
「元より、嫌われていましたから。助けられたとしても、拒まれて終わりでしょう」
「……あぁ、そうかよ!! もういい!!」
マージでリリィの部屋へとスノーは移動する。人間の与える罰なんかもう、どうでも良かった。それよりも、今も一人で静かに消えようとする彼女を、それを忘れそうになる自分を、止めたくて。
扉も無視したその到着に、部屋でただ座っていた彼女は驚いた顔をする。
「す、のー?」
その声は人のようには聞こえず、だが確かに彼女の声。今や体も砂のように白くなり、ところどころが崩れている。
「リリィ!!」
だが、スノーは構わず彼女の傍に駆け寄った。
「何でこんな、大事な事黙ってんだよ! 一人で消えて、オレたちはお前を忘れて、それで終わりなんていいわけねえだろ!!」
「だって、それが、罰、だもの。神の、領域に、触れた、から」
ほんの僅か笑ってみせたリリィの肩が、軽く崩れる。それを留める為の魔法を試みるが、全て無力化されていた。
「ね、スノー。見せて。あなた、の、ほんとの、姿」
黒い髪と瞳、そして同じ少女である自分の姿に、スノーは戻る。だが、いつも浮かべる冷徹さはなく、年相応に表情を歪めていた。
「どうしてなんだ。私のような姿の人間こそが、リリィのようになるべきなんだ。私が居なくとも、本当の意味で誰も困らなかった。あの男さえ、邪魔をしなければ!」
この罰を引き受ける事さえ、出来ない。禁忌以上に禁忌な魔法は存在しない。
だから、せめて見届ける事しか出来なかった。
「いいの。もしかしたら、無くなっちゃうかも、しれないけど……。そこにね、宝箱が、あるの。あけて、みて?」
この非常事態に何を、と言いかけたが、無くなるかもしれないと聞いて、スノーは机の上にあった小さな箱を開ける。中には、いつかスノーが交換したリモワが入っていた。
「それ、あげる。大事な、スノーとの、記憶、入れたの。たくさん」
そこに気配が増えた。振り向くと、クレイスが沈痛な面持ちで立っている。
「……なあに、馬鹿兄。駄目妹の、惨めな最期を、見に、きた、の?」
「惨め過ぎませんか。いくら実の妹でも、こんな姿だとは思いませんよ。全く笑えません」
「何をしに来た」
「禁忌の罰を見届けに、ですよ」
「ふざけるな! 出ていけ!」
「そうはいきません。……リリィ。神の領域に触れた者は、等しくこうなるのですか?」
この期に及んで、不要な質問をするつもりか、と睨みつけるスノーの傍で、リリィは静かに答えた。
「さあ? いずれ、わかる、でしょ。……だって、あなたも、同じ、だもの」
ぼろり、と片腕が崩れた。だがそれは灰のように散り、そして床に落ちる前に消える。
「リリィ……っ! 消えないでくれ! 頼むっ……!」
少しでも引き止めたくて手を伸ばすスノー。だが指先が触れるか否かの瞬間、ぼろ、とひときわ大きく彼女の体が崩れ。
「あり、がと。すのー。さよな、ら」
乾いた感触と共に、彼女は消えた。
瞬間、世界全てにノイズが走ったような、そんな感覚がスノーを襲う。
眩暈のようなそれが治まった後、スノーは怪訝そうに何も無い部屋を見回し、呟いた。
「……ここは、どこだ?」
「空き部屋のようですが……何故、私たちはここに居るのでしょう?」
何故か一緒に居たクレイスが、首を傾げている。途端にスノーの感情は憎しみに支配された。
「知らんが、貴様が居るという時点で、私がやる事は決まっている」
スノーは立ち上がると、何故か抱く悲しみを振り払い、その手に杖を現した。
クレイスもくすりと笑って、同じく杖を現すと白い空間を展開させた。いわゆる結界のようなものだが、決して外からは目視も感知も出来ない。
学院内での戦闘が違反というのに配慮したのか、ただ邪魔が入って欲しくないだけなのか。分からないが、好都合なのは確かだった。
「死ね」
光の槍が、白い床から無数に突き出す。クレイスは串刺しになりながら、だが死ぬことはなくスノーの体に炎を灯した。
肉も髪も焼け焦げて、爛れていく痛みが襲う。しかしそれでも、死ぬことは不可能で。
炎を消したスノーは、瞬時に修復されていく間にクレイスの首を光の刃で刎ねた。
それでも、彼もまた死なない。魔法で持ち上げられた頭が、首にくっつく。
化け物だと思う。自分も、彼も。そしてそれは事実だ。
だが、何故なのか。振り払い切れない感情の残滓が、スノーを時折、揺らがせる。
何か、大事な事を思い出せない。そんな気がしたまま、殺し殺されを数十回続けてから、やがてスノーは杖を消した。
「……馬鹿らしくなってきた。貴様は死なない。私も死ねない。何の意味も持たない殺し合いだ」
「それはそうですね。気が済んだということですか?」
「飽きた。貴様の居ない国にでも行った方が、よほど楽しいだろう」
そもそも、この学院に居る理由ももう無い。卒業まで耐えたところで、自由など仮初だ。
そう思った途端、眩暈が襲う。
(……理由が、あったか? この学院に留まっている、そんな理由など……)
無理矢理連れて来られた。正体を隠しながら、適当に過ごしていた。それだけだったはず、なのに。
堪え切れず、膝をつく。その時、袖口から赤い小さな球が転がり落ちた。
「……リモワ?」
何故こんな所に、と思いながら拾い上げた途端、記憶が洪水のようにスノーの頭に流れ込んで来た。
『スノー、あたし、あなたに会いたかったの』
『一緒に居れば、大丈夫よ。なんたってあたしにはね、前世の記憶があるんだから』
『守ってあげる、今度こそ。スノーには幸せになって欲しいから』
見知らぬ少女の記憶。声。言葉。それはまさしく、友人と呼べるような。
だが、何故か。何故、名前が思い出せないのか。
記憶の中で彼女は、名乗らなかった。だが、この学院に来てから、確かに彼女はスノーの傍に居た。それが分かる。
何故ならこのリモワは、スノーが作ったものだから。
「スノー? どうし……」
クレイスの言葉を聞かず、スノーは無言で自室へと転移する。そして泣いた。
いつの間にか、また、大事な人を一人、スノーは失っていたのだと理解して。
そしてふと、思い出す。この少女がスノーのリモワを持っていたのなら、スノーは彼女のリモワを持っているのではないか、と。
机周りを探したスノーは、小さな箱を見付けた。そこには一枚のメモが入っている。
『×月×日、クレイスの授業にて、リリィと交換』
自分は、思い出の物をこうして箱にしまう癖がある。亡き両親や養老父の灰が入った瓶も、家の箱の中にしまっていた。日付と共にメモを残して。
「……リリィ。そうか、リリィか」
入っていたリモワを手に取ると、記憶が流れ込んで来た。純度が低いせいかノイズ交じりのそれは、これを作った日の記憶。
『おい、早く触媒を入れた方がいいぞ』
『う、うん。今入れるわ』
――不出来なものだと嘆く彼女、慰める自分、それをわざわざいびりに来たクレイス。
ああ、こんな日常を彼女と自分は、送っていたのだ。
『ほら、交換だ』
『いいの?』
『別にオレは、何も残らなくてもいいからな』
――そんな事を言っておきながら、こんなものを残して。だが、だからこそ。
「リリィ……私の、唯一の、友人……」
だが、彼女はもうどこにも居ないようだ。この世界の、どこにも。
ポケットを探ると、もう一つ、リモワが出て来た。それは全く別の、知らない自分達。クレイスに殺された自分を助けようとするリリィの記憶、のようだ。
大体の繋がりが分かった。リリィという存在は、前世とやらで自分を助ける為に禁忌である時を巻き戻す魔法を使い、そしてマイネ・クライネの罪人となって、罰を受けて消えたのだと。
それならば、この悲しみは、怒りは、神に向けるべきだろう。
「……どうやら、私は神とやらを憎まなければいけないらしいな」
どうでも良かった存在から、クレイスと同等の存在になった。
禁忌などを人間の世界に置くから、こんな事になるのだ。初めから禁忌など、存在すべきではないのに。
それともあるいは、見せしめか。神の領域に触れた者はこうなるのだという、生け贄だと。
「……は、馬鹿馬鹿しい。神なら黙って見ていろ。いつかこの世界を滅ぼして、禁忌も神も全てを、壊し尽くしてやる」
リモワを手にしながら、黒髪の少女は呟く。憎しみの光を、その闇色に灯して。
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