小心翼々とした共有その3
―――翌日早朝。王都アンバルシア北区、赤鳳騎士団寮
「おはようっ、マテウス卿! 今日も良い天気だぞっ!! むぐぅっ」
部屋の扉が壊れるような勢いで中に入ってきたのはエステルだった。彼女は勢いそのままに、ベット上で横になっているマテウスに突撃しようとしたが、それを顔に突き付けられた右手一本で制される。
マテウスが顔を上げて彼女の姿を確認すると、予想通り鎧や具足といった装具一式を身に纏い、背中に
「おはよう、エステル。毎度の事だが、ノックの仕方を学習してくれないか?」
「私がノックしても卿は中々部屋から顔を出してくれないではないか。この方法なら、起こす手間が省けるというものだ」
「学習はしてるんだな、学習は。間違った方向に」
これは俺の責任か? と罪の意識に
「うむ、今日も良い訓練日和だ。さぁ、朝のランニングに行かないか?」
振り返ったエステルの後ろで、彼女の肩まで伸ばされたお下げが揺れる。その光景を見てマテウスは、主人に散歩を
「今日はオフだと伝えただろう」
「なにっ? そうか……昨日の騎士団査定で私達の強化期間が終わったのだったな。しかし、ランニングは日課のようなものだし、付き合ってくれても良いだろう?」
「オフだから人手が足りなくてな。朝から色々あるんだよ。すまないが、1人で行ってくれ」
「むぅ、そうか……それは、残念だ。では、私1人で行ってくるか」
「悪いな。また空いてる日は付き合うよ」
肩を落としたエステルの背後で、先程まで揺れていたお下げが心なしか、しゅんっと垂れる。トボトボと歩き去ろうとしたエステルを、止せばいいのにマテウスの隣で寝ていた女が呼び止めた。
「エステルさん。今日の貴女は補習だという事を忘れていないでしょうね?」
「うんっ!? なんでロザリア殿がここに?」
「それはとりあえず置いておきましょう。まずは挨拶ですね。おはようございます、エステルさん」
「あ、あぁ……おはよう、ロザリア殿」
「それで、忘れてないでしょうね? 約束しましたよね? 強化期間が終わったら、私と勉強をするって」
「そ、それはだな。その、うむ……勿論、忘れてなどいない。騎士は約束を守るのだ」
「……なんだ? 補習って。そんなに悪いのか? エステルの成績は」
「悪いなんてもんじゃありません。最悪です」
「最悪」
「同じ内容で授業を受けているのに、どうして他の娘とこんなに差が付くのか……悪夢です」
「悪夢」
「くぅっ、なんという
膝と両手を着いて崩れ落ちるエステルと、それを見て眉間に指を押し当てて苦悩のため息を零すロザリア。事情の大よそは察することが出来たので、マテウスとしては苦笑いを浮かべるだけだ。
そうしていると、後ろからロザリアが崩れ落ちたエステルへと歩み寄っていく。勿論、彼女は生れたままの姿だったので、マテウスは手早く
「死ぬ前にもう少し頑張りましょうね? エステルさん。貴女は他の娘よりも少し時間が掛かるけど……やれば出来る娘なんですから」
「……ロザリア殿、なんで裸? 裸ナンデ?」
ロザリアは疑問に答えず、エステルの両手を握って優しい瞳で見つめる。
「もし今日中に全部の課題をこなす事が出来れば……一緒になにか食べに行きましょう? お給金、頂いたばっかりですよね?」
「いや、その……申し出はありがたいが、私は仕送りをしなくてはならないのでそんな余裕は……」
「分かりました。では、私の
「まことかっ!? 師にそこまでしただけるとは……生徒として、応えぬわけにいかんな」
「だから今日は一日、一緒に頑張りましょうね?」
そう告げるロザリアの顔はマテウスからは見えなかったが、弾んだ楽しそうな声からこのやり取りを、偽りなく心底楽しんでいるようにマテウスは感じた。
「うむ。約束しよう……ところで、ロザリア殿。どうしてマテウス卿のベッドから裸で……」
「早朝のランニングは許します。エステルさんは、きっと身体を少し動かした方が頭も働きますよね?」
「よっ、良いのか? ロザリア殿は流石、
「まぁ、お世辞を言っても補習は厳しくいきますよ? では、いってらっしゃい。エステルさん。寄り道はせずに朝食までには帰って来てくださいね?」
「あぁっ! 今日は久しぶりにレスリー殿の料理が食べられるからな。楽しみだ」
「えぇ、私も。レスリーさんは私に気を使って別メニューを用意してくれるので、ありがたいです」
「では、行ってくるっ!」
エステルは首を大きく縦に振って頷くと、リードから解放された大型犬のようにお下げを揺らしながら猛然と部屋から飛び出していった。あの様子だと、会話途中に抱いていた小さな疑問など、忘れている事だろう。閉める際に強く叩き付けられた扉の音に、マテウスとロザリアは2人、耳に手を当てて顔をしかめた。
「俺は時々アイツが心配になるよ」
「それには私も同意見ですが……大切な所は間違えない人だから、大丈夫ですよ」
多分ですけどね……と、肩を揺らしながら声を漏らして笑ったロザリアは、ベッドの下に重ねられていた衣服を手に取って、マテウスの横に腰掛けて着替え始める。マテウスは鼻歌交じりにそうする彼女の横顔を眺めて、授業中の様子を思い出していた。そういえば、こうやって楽しそうな笑顔を浮かべていたな、と。
「どうしました? 今更、昨夜は勿体ない事をした、とか思ってますか?」
「いや……楽しそうだな、と」
「そうですね、楽しいです。誰かさんに乗せられて初めて教師なんてしましたけど……案外向いているのかもしれません」
「男を
「どちらが本当の私か……なんて話ですか? 止めてください」
「そうだな。どちらも大切な君だ。どちらが欠けても君ではなくなる」
マテウスの言葉にロザリアはなにも返そうとしなかったので、彼にはロザリアがどういう心境であったかは読み取れなかった。ただ彼女は、視線を反らして着替えを続行する。
衣服から首を出して、髪を搔き上げる。そんな何気ない仕草1つ1つが男を惑わす事を思うと、まるで武器のようだとマテウスはそういう感想を抱いた。そして、1つの答えに思い至る。
「あぁ、そうか……武器なのか」
「どうしたんですか? 突然」
「君はその武器を手に、まだ闘っているんだな」
「変なモノでも食べましたか?」
「食べたというか、一杯食わされたというか……なにが
普段通りの険しい表情を浮かべながら、ただ淡々と返すマテウスの発言を飲み込めずに、ロザリアは不思議なものを見るような眼差しを送っていた。
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