灼然たる朱き紅その2

 ―――同時刻。王都アンバルシア中央区、貧民街


 ダードリー公園から小走りに駆けて10数分程度。西区と中央区の行政的なさかいに、貧民街は立ち並んでいた。そこは路地を何度も曲がっては抜けとした、入り組んだ場所にある為、街の景観を損なわないからと放置された区画だ。


 流れ着いた移民や難民、ホームレス、孤児や訳ありの人材等々、王都的に面倒な連中を押し込んでおく為に便利なので、えて見逃されている区画とも言えた。ここでの出来事は治安局も余程の事件でなければノータッチな部分が多く、政府から腫れ物扱いを受けているような場所である。


 そんな区画の路地を我が庭のように歩くヴィヴィアナ。だがしかし、王都に辿り着いてここに住み始めたのは、まだ1ヶ月も経ってないのだとエステルは聞かされていた。


 1ヶ月も経たない内にこの道なりを覚えたのかと、エステルはとぼけた感想を抱いていた。エステルは既に元の場所に戻れる自信がない。普通の人間ならここら辺で、不安や焦燥感を覚えるのだろうが、エステルは違っていた。


 それはエステルが、帰る時になったらヴィヴィアナが案内してくれるのだろうと、なんの根拠もない楽観を同時に抱いていたからである。彼女が初対面のヴィヴィアナに対して信用に足るなにかを感じ取ったという訳ではなく、ただ単にエステルがそういった警戒心を、持ち合わせていない性格なのである。


「それで、そろそろ商会とはなにかを説明して欲しいのだが。なんで貴女は先程、男達に絡まれていたのだ?」


「あれは、私が商会を通さずに勝手に商売をしていたからっていうか。面倒だったけど、あれに関してはあいつ等のが正しかったっていうか……」


「なにっ? 商会とやらを通さずに商売するのは悪事なのか? では私は、悪事を成す為に剣まで抜いたというのかっ?」


「別に悪事って程じゃないし。ちょっと小銭を稼ぎたかったの。でも、少し話題になり過ぎたみたいで、商会に睨まれちゃってさ……さっきの連中が来て、登録しろだの罰金だの言って。でも、まぁ私も少しは悪かったし、穏便に済ませようかなって所でアンタが来て、余計な事してくれたのよっ」


「ヴィヴィアン殿が悪いと言うのであれば、あの男達が正しかったという事ではないのか? よく分からんぞ?」


「ヴィヴィアンじゃない、ヴィヴィアナ。呼びにくかったらヴィヴィでもいいよ。姉さんにはそう呼ばれてるし」


 足を止めて考え込んでしまったエステルを振り返って、ヴィヴィアナはどう説明したものかと頭を抱える。本当はヴィヴィアナ自身、彼女に非がある事を自覚していた。ただ、それは色々な事情が絡んでの事だ。


 ヴィヴィアナはエステルに対して余計な事をしたと口にしたが、それなりにエステルの行為に感謝はしていた。見ず知らずの相手を助ける為に、面倒事の間に割って入る事など中々出来る事ではない。だが、そんなのエステルに対しても、全ての事情を説明するのははばかられたし、商会の知識についても、詳しく説明出来る程の言葉や知識を、彼女は持ち合わせていなかったのだ。


「事情が色々あるのよ、それは……余り言いたくない。商会の事は私も詳しく説明できないから姉さんに聞いてよ。姉さん、私より賢いしさ」


「姉さんというと、私達は今からヴィヴィ殿の家に向かっているのか?」


「そうよ。あんな事した後じゃ暫くは仕事出来ないし、まぁアンタにも少しは感謝してるからね。本当に私1人だったら、どうなってたか分からないしさ……その、なにか出すぐらいするわよ」


「そうか、感謝してもらえていたのか……それなら良かった。ヴィヴィ殿の力になれたようで嬉しいぞ、私は」


 ヴィヴィアナの不安は他所よそに、エステルはそんな不十分な答えで満足したように朗らかな笑みを浮かべた。エステルにとっての内なる正義は、ヴィヴィアナが考えるよりも、単純明快だ。その笑顔を見てヴィヴィアナは、表情を浮かべるのが苦手な彼女らしい、困ったような苦笑で返す。


「だが、礼は不要だぞ。私は騎士として当然の事をしたまでだからな。それに、余り長居するとレスリー殿を心配させるやもしれんし」


「レスリー? まぁとにかく、ここまで来たんだから遠慮しないでよ。どうせアンタここから帰れって言ったって、1人じゃ帰れないでしょ? 私は荷物置いておきたいし、どっちにせよ1度家に帰らして欲しいの」


「むっ……そういう理由なら致し方ないな」


 方針が固まって、気持ちエステルの足取りも軽快になったようだった。その姿を見て、まるで子供のようだと、ヴィヴィアナはまた少し苦笑いを浮かべた。


「ねぇ、エステル。アンタ幾つなの? 見た目の割りには強いし、言葉使いもしっかりしてるみたいだけど……」


「見た目の割りとはなんだ、見た目の割りとはっ! 私は、見た目通りだ。見た目通り18歳の立派な騎士で、レディー……」


「ウッソ、18って私より2つも年上って事? マジで言ってるの? アンタ」


「なんだとーっ! 失礼なっ。どう見ても18歳だもんっ! おねーさんだぞっ、もっとうやまえっ!」


 そう言いながら両手を振り回すエステルの様子は、どう見ても子供そのもので、やはりヴィヴィアナは信じられない物を見るような視線を、彼女へと浴びせ続けるのだった。


「ここがヴィヴィ殿の御家……か」


 それから暫くの後に、彼女達は目的地であるヴィヴィアナの住居へと辿り着く。エステルは建ち並ぶ家屋がどれも酷い有様なのを目にしていたが、それに輪をかけて酷い有様の家屋へと入ろうとするヴィヴィアナの後ろで、少したじろいでしまった。


 親衛隊兵舎もそれなりに古く痛んでいたが、それの比ではない。幽霊屋敷のような雰囲気すらある。一応施錠などは出来るようだが、エステルには窓もなにもないその造りが、人が住まう為の場所に到底見えなかった。


 実際に、この周辺一帯は、使われなくなった倉庫群の成れの果てで、そこに勝手に人が住み着いて居住区としているが現状で、ヴィヴィアナもその1人という事である。


「ハッキリ言ってもいいよ。私も酷い環境だと思ってるし」


「いや、申し訳ない。そんなつもりはなかったんだが……」


「今の季節なら中はそんなでもないよ。多分、これから暑くなるにつれて地獄になるんだろうけどさ」


 人が住むわけではないから、通気性など考えられている筈もなく、かといって所々穴の開いた壁では断熱力が発揮されよう筈もない。夏にも冬にも最悪の居住空間を提供してくれるであろう。


 それが分かっていてなお、ここに住むのであればエステルが口を出すべき所ではない。事情があるのだろう。それぐらいの事はエステルにも想像出来るようで、彼女は黙ってヴィヴィアナの背中について歩いていく。


 エステルは、治安の悪そうな場所で女性の2人暮らしとは危険ではないかとも思ったが、ヴィヴィアナの体術を目の当たりにした後だと、杞憂きゆうだと考え直す。多分、彼女の姉もそれなりの腕前なのだろう。そう考えれば最悪の事態は起こらないのかも知れない。


 しかし、その最悪の事態はエステルの目の前で既に起こっていた。ヴィヴィアナの顔に緊張が走る。開こうとした扉の施錠が外れていたのだ。手にしていた仕事用の道具や粗末な弓を放り出して、扉を勢いよく開け放つ。


 部屋の中は元倉庫だけあって、置き去りにされた雑多な箱などがそこら中に転がっていた。エステルの目にはテーブルやベットも映ったが、周囲が雑多なお陰で、それが荒らされているのかどうか、一目ひとめでは判断できなかった。


 だが、ヴィヴィアナの様子は真剣そのものだ。顔面を蒼白にしたまま声を上げる。


「姉さん、いないのっ!? 姉さん、お願い……返事をしてっ!」


「ヴィヴィ殿、落ち着こう。貴殿の姉上が1人で出掛けたとか、なにか書置きがあったりしないのか?」


「しないっ! 姉さんには危険だから1人で出歩かないようにって、2人で約束したもの。それを破って勝手に何処かに出掛けるだなんて……」


 そこでヴィヴィアナは、テーブルの上に転がった花瓶に目を奪われた。中に入っていた花は無残に散っていたが、別にそれに対してなにかを感じた訳ではない。花瓶から零れ落ちた水が、乾きもせず水溜りを作り、ゆっくりとテーブルの下に滴り落ちる光景に、希望を覚えたのだ。


 冷静になった彼女の対応は早かった。右耳に留めていたピアスを外して、右手に握り理力を解放する。すると右拳の中で、ピアスが淡い輝きを示し始めた。


追跡石チェイサー……それならあるいは)


 ヴィヴィアナが手に握った追跡石。それは理力で複数個の石を繋げる事によって、使用者と他の石を持っている相手との位置を探る、消費型の理力付与道具エンチャントアイテムであった。


 要人と警護とに持たせておく場合が多く、その名が表すようにそれ自体が理力倉カートリッジになっていて、1度使うと理力の補充を行うまでは使用出来ないという、コストのかかる装具である。


 貧民街で暮らすヴィヴィアナには不釣り合いな品だとエステルは感じたが、しかし今はその不釣り合いな品を、彼女が携帯していた事実を素直に喜ぶ事にした。


 暫く無言で集中していたヴィヴィアナが、顔を上げて外へと駆け出した。それに続いてエステルも外へと出る。しかし、ヴィヴィアナの姿はそこにない。しかし、上から降って来る騒音が、エステルにヴィヴィアナの位置を示してくれた。


 彼女は家屋の壁を蹴り上げ、跳躍ちょうやく。屋根に手を伸ばして掴み、その上までよじ登る。蹴られた壁には埋めるのも難しい程の大穴が開くが、この緊急時には問題視されなかった。


 屋根の上をヴィヴィアナが駆け出すのを見て、エステルも下からそれを追いかける。そうしてヴィヴィアナが向かった先は、この近辺で最も背の高い家屋だった。ヴィヴィアナに踏みつけにされ、家屋を壊された住人が部屋から顔を出して怒鳴っているが、彼女の耳には届いていない。それをフォローするようにエステルが頭を下げて謝罪した。


(遠くない筈。何処? 姉さん……いた。あれだ)


 入り組んだ路地を走れば3km以上あるだろうが、直線距離にして1kmといった所か。豆粒のように小さいその影を、ヴィヴィアナは肉眼で捉えていた。


 これならいける……そう心の中で唱えたヴィヴィアナは、背負っていた弦の張っていない弓を取り出した。初見のエステルは最初それを弓だと気付かなかったのだが、それは折りたたみ式の複合弓コンポジットボウで、彼女が背から外し、右手に携えて振り抜くだけで弓の形を成した。彼女の髪の色と同じく、鮮やかな赤色の弓だ。


 弦も張っていない弓でなにをするつもりなのか……怒鳴り散らす住人を尻目に、エステルは静かにヴィヴィアナを見上げる。そんなエステルの前でヴィヴィアナは複合弓を理力解放インゲージ。気付けば理力解放された弓には、赤く光り輝く弦のような物が顕在けんざいしていた。


 それを右指先で摘み、太陽を射抜くかのように斜め上空に狙いを定めながら弦を引けば、それに従って糸のように光は柔軟に伸びていく。それと同じくして、弓には弦と同様の光り輝く赤い矢が顕在し、つがえられた。


 その様子をいつの間にか息を呑んで見守っていたエステルの視線の先、限界にまで引き絞られた弓から赤い矢が放たれる。一筋の赤い光が青い空を切り裂くように放たれ、線を引いて消えていった。

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