誓いの啼泣その4
―――同日、同時刻。王都アンバルシア中央区、ダードリー公園
ダードリー公園は、グリニッチ市場から王女親衛隊兵舎への帰途に使うのに、便利な場所だった。距離的には回り道になるのだが、グリニッチ市場を買い歩いて進んだ距離を、再び引き返して人混みに揉まれながら真っ直ぐに兵舎を目指すよりは、体力的にも時間的にも効率が良かった。
景観といえば、特別になにかがあるというわけでもなく、馬車が行き交う事が出来るように広く作られた並木通りと、ポツリポツリと設置された休憩所代わりのベンチと街灯。木々の向こう側には、駆り揃えられた青々とした芝生が広がるのみである。
だが、王都アンバルシア内では余りお目にする事のない、自然に近い緑を楽しめるスポットとして親しまれており、中央区に住まう貴族達が馬を走らせたり、子供達が遊び場として活用したりと、それなりには人が集う場所であった。
そんな公園を歩いている最中、この公園には珍しく、人だかりが出来ている場所が2人の目に止まる。マテウスは自身の記憶が確かなら、その場所に、なにか特別なオブジェや遊具などはなかった筈……そう思っていると、聞こえてくる
普段は素通りするマテウスであったが、この時はなんとなくその場所に足を運んでみた。理由は色々あるが、1つ上げるとするならモニカの事に対して、レスリーに掛ける言葉を探す時間が欲しかったから……だろうか?
どうせ今日は予定していた事件捜査に、回す時間はない。だからもう少しだけ……己がどれだけ力になれるか分からずとも、正解に近い答えに至る切っ掛けを求めていた。
マテウスが向かえば、レスリーはその後ろを付いて行くだけである。マテウスが人だかりの横で足を止めたのを見ると、彼の横に立ち止まって、彼の顔と人だかりの先を、落ち着かない様子で交互に見詰めた。
人だかりの視線の先にいたのは女だった。歳は14歳のレスリーより少し上か。美しく彫りの深い彫像のような顔立ちをした女で、その釣り上がった大きく意志の強そうな瞳と、額と耳を隠して背中まで伸びる、手入れの行き届いた
特にその長髪は不思議な色合いをしており、影が差せば普通の茶髪なのだが、太陽の光を浴びた時の加減で、夕暮れでもないのに真っ赤に染まって見えるのだ。マテウスも初めて見る赤毛を、隣に立ち並ぶレスリーも吸い込まれるように見入っていた。
そんな彼女が右手に持つのは、弓だった。マテウスの目にそれは、余り
狙うのは彼女が用意したのであろう、上部を厚い布を包んだだけの、棒状の簡易な的だ。それを10m先に3つ。その向こう、約20m先に1つ立てて、次々と的に矢を射っていく。
歩きながら同じ的を速射で射抜いて見せたり、同時に3つの的を3本の矢で射抜いてみせたり、遠方の的に放物線の角度を調整して2本の矢を同時に当てて見せたり、曲芸染みた技を、特になにか誇るわけでもなく、無愛想な表情のまま次々と披露してみせた。
その度に人だかりは、彼女が用意した受け皿にチップを投げ入れたり、歓声や拍手を送ったりしている。横に立つレスリーも、彼女にしては珍しく目を輝かせながら見入って、周囲に釣られるようにささやかな拍手を送っていた。
一方マテウスは、彼女の技に対してもそうだが、その体つきと背中に背負う物が気になっていた。標準的に育っている胸当てで押さえ付けられた膨らみや、
そして彼女が背中に背負っている、弦のない弓……マテウスはそれと同じ物を見た事はなかったが、その造形から間違いなく装具だろうと予想出来た。
弓の装具を使う騎士は余りいない。騎士には近接戦闘でこそ勇気が測れるという思想があるし、決闘で決着を……という文化もあるので、決闘に置いて出番のない弓を、好んで使う者がいないのだ。
それらを総合してマテウスは、彼女を
「次ー。そろそろ暗くなるから最後ね。誰か3人手伝って欲しいんだけど」
まだ夕暮れ時にもなっていないが、どうやらそろそろお開きにするようだ。観客に対するとは思えない、無遠慮な言葉使いでそう告げる彼女の問いに、挙手で応えたのは最前列で見入っていた子供が1名だけ。
他に立候補者の姿はない。赤毛の女は暫く待っていたが、誰もが戸惑ったような表情を浮かべるだけで、前に出ようとする者はいなかった。まぁ、なにを手伝わされるかも分からない状態では、当然だろう。
「じゃあこっちで勝手に決めさせてもらうね。アンタと……そこのアンタ。手伝ってくれる?」
「えっ? やっ……レスリーですか? いやっ、その……」
痺れを切らした赤毛の女が指名したのは、どこにでもいそうな町娘と、レスリーだった。指名されたレスリーは身体を反射的に震わせてから、後ろ足を踏む。自ら断る事も出来ず、マテウスの顔を見上げて、どうすればいいかと瞳に涙を溜めて訴えた。
「まぁ、行って来るといい」
そんなレスリーの背中に手を回して、赤毛の女へと押し出してやる。なにか危険な事になるようなら、その時に助けに入ればいいと、マテウスは気楽に選択した。結局レスリーは、またしてもなにかを選択する事も出来ずに、視線の集まる渦中へと放り込まれる。
「じゃあさ、アンタ達。せーのっで、このリンゴをあそこら辺に投げてくれない? 出来るだけ高い位置がいい」
「わかったっ!」
赤毛の女の依頼に、声を出して答えたのは最初に手を上げた子供だけだった。だが、レスリーも町娘も、なにをするべきかは理解したようで、リンゴを受け取って深く頷く事によって返事をする。
その後、赤毛の女は3本の矢を右手の指先に同時に挟むようにして持ちながら、弦を弾いて深呼吸。精神統一……というよりも、なにが始まるのかと期待にざわついている、観客が静まるのを待っているようだ。
その間中、レスリーは心の内でマテウスへの恨み言が並べていた。チラチラと何度もマテウスを確認しなおすが、彼はレスリーから目を離さないまま、身動きもせずに腕を組んで
それに、レスリーの内に少しだけ興味があったのも事実。彼女の肌より珍しい、赤毛の長髪を
やがて赤毛の女が動かない事に、観客が静まり返る。今注目を浴びているのは、レスリーの肌などではない。赤毛の女の一挙手一投足。瞳を閉じて下を向き、身を屈めたままの彼女の口から、合図が発せられた。
「せーのっ!」
同時に空へと投げ放たれる3つのリンゴ。高さも位置のバラバラなそれを、赤毛の女はまず中空で止まった瞬間を狙って、同時に2つのリンゴを射抜いた。続けざまに構えた矢で、落ちてきたリンゴを冷静に射抜く。
すべてが終わった瞬間、観客からはもう1度大きな拍手と歓声が起こった。それらを一身に受けた女は、頬を染めながらぎこちなくはにかんだ笑顔を浮かべる。それが演技中、常に仏頂面だった彼女の初めて見せた笑顔だと、レスリーは気付いた。
「手伝ってくれてありがとね」
赤毛の女が全ての演目が終わったのを見て、人だかりは散り散りになって帰っていく。マテウスとレスリーも彼等と一緒になって帰ろうとしていたが、そんな2人の背後から声を掛けられる。2人が振り返った先にいたのは、赤毛の女だ。
「えっ? それは、その……レスリーに、ですか?」
「そっちのオジサンに言ってるように聞こえた? アンタさ、最初嫌がってるように見えたから……その、悪い事したかなって。だから、ありがとう」
「いや、その……それは確かに、最初は……め、目立ちたくなかったので。でも、レスリーがお役に立てて良かったですっ」
「んっ。それじゃ」
レスリーの答えが聞けた事で満足したのか、赤毛の女は頷いて踵を返す。やはり仏頂面の彼女ではあったが、元より無表情のパメラとは違って、その瞳には様々な感情を映している女だった。ただ少し、表情を作るのが苦手なだけのようだ。
「あっ、あのっ! す、すみませんっ、どっ……ど、どうしてレスリーを選んだんですか? そ、その……レスリーのような人より、他にも……沢山、相応しい人がいたと思います……けど」
歩き去ろうとする赤毛の女の背中に向かって、自身から質問を投げかけるレスリーの姿に、マテウスは驚きを隠せなかった。レスリーが自分から積極的に他人に関わろうなどという姿を、彼は初めて見たからだ。
足を止めて振り返った赤毛の女は、横髪を掻き上げながら困ったような視線をレスリーに返す。横髪に隠れていた彼女の右耳には、小さなピアスが輝いていた。
「知りたい?」
「し、知りたい……です」
レスリーにとってそれは重要な問いだった。あの大勢の観客の中で、何故ベルモスクの血が混じった自分が選ばれたのか。特別な色をした赤毛の彼女になら、なにか特別な答えが隠されているような気がしてならなかったのだ。
「私、男って嫌いなんだよね。だから女の子を選んだ。後はアンタがあの中で1番、人目を引きそうだったから……」
その返答を聞いた時、レスリーは瞳の色を失った。聞かなければ良かったと、そう後悔した。結局、赤毛の女にとっても自分はベルモスク混じりの珍獣にしか見えないのだ。なにかを期待した自分が馬鹿なのだと、そう
「あの中で1番可愛いって思ったからアンタを選んだの。その黒髪と肌、綺麗ね……そっちの父さん? じゃなくて、母さん似で良かったんじゃない?」
それじゃまた見に来てね……そう告げて去っていく赤毛の女を、呆然としたままレスリーは見送る。普段なら与えられた前向きな言葉は全て否定から入るレスリーであったが、赤毛の女の言葉は何故か、スッと彼女の胸の中へと落ちてきた。
レスリーと利害が発生しない初対面で、レスリーより特別な存在だからかもしれない。だが、信じる事が出来たからこそ、母親似という単語に強く胸を締め付けられた。
幼い頃のレスリーにとって、優しさや美しさの象徴は間違いなく母親だった。そんな母親と同じ血が流れている証である褐色の肌と黒髪を、彼女は自分自身で
当時のレスリーは、母親とお揃いであるこの肌と髪を愛していた。その事で
そしてレスリーは思い出す。アイリーンが可愛いと評してくれた事を。エステルがモニカから庇ってくれた事を。そして、マテウスが与えてくれる不器用なりの励ましを……それ等を素直に受け入れず、拒絶し、疑い、あまつさえ恐怖を覚えるなど、一体いつから自分はこんなに醜くなってしまったのだろうかと。
(この肌もこの髪も、お母さんの代わりにずっと傍にいてくれたのに。醜く穢れてしまったのはレスリーの心の方……だったのですね)
レスリーは深い悲しみに覆われて、自然と涙を零した。こんな時ですら周りの迷惑にならないように声を抑えながら、自らの醜さに気付かされて、それでも母親の残した物を愛する事も、誇る事も出来ない心の弱さに、さめざめと涙を流す事しか出来なかった。
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