誓いの啼泣その3

「あ、あの……マテウス様? もしかして、レスリーは間違えましたかっ? すいません、すいませんっ!」


 押し黙ってしまったマテウスに対して、レスリーは自分がまた余計な発言をしてしまったのでは? と、勘ぐってしまい、途端にいつもの調子で謝り始める。それによって正気に戻ったマテウスは、すぐに口を開いて訂正した。


「あぁ、こちらこそ誤解させてすまない。正解だよ、レスリー。君は算術が出来るのか?」


「へっ? さ、算術ですか? レスリーは、そ、その……ドイル家では使用人として働いていたので、そういう事には疎くて……あ、数の数え方だけは、教えて頂きました。そ、その、道具の確認とかに、必要でしたので」


「……そうか。では、俺が先日に君の破れたドレスを、あの呉服屋で処分したというのは、聞いていたか? その日、少し交渉を粘ればセグナム銀貨2枚相当になる所を、あえてセグナム銀貨1枚で俺は処分した。さて……このやり取りを踏まえて、最後には店主と俺、どちらが幾ら得をしたのか、分かるか?」


「ええっと……これは、その……マテウス様がタークス大銅貨9枚得をしていますねっ! す、凄いです。マテウス様っ!!」


「……そりゃどうも」


 凄いのは君の方なんだが……と、マテウスは思わず言いかけたが止めておいた。彼女が算術を実は知っている、という嘘を吐いている可能性もあったが、そんな意味のない事をするようにはやはり思えない。


 そしてマテウスは、純粋な興味からレスリーがどこまで出来るのか試したい気持ちに駆られて、もう少し捻った問題を出してみる。


「では、こんな話をしよう。俺はとある人を雇って、1月……まぁ仮に30日としようか。30日にセグナム銀貨3枚で契約した。その、とある人を6日目に解雇しようとした場合、俺はとある人に幾ら払うのが妥当だ?」


「か、解雇されちゃうんですか? そ、その……その、とある人はどうなってしまうんでしょう?」


「そのとある人は優秀だから、次の職場を探すんじゃないか? それより、俺の質問に答えて欲しいんだが」


「そうなんですか……レスリーと違って、優秀なんですねっ? 良かったですっ! え、えーと質問ですよねっ? はい、質問はえーっと……」


 流石に今度は時間が掛かるだろう。マテウスはリゾットを食べ終えて安物の酸っぱい果実酒を喉へと流し込もう……


「これも、タークス大銅貨9枚……でしょうかっ?」


 流し込もうとして、盛大にむせた。その様子に、レスリーが立ち上がって慌しげにマテウスを気遣おうとするが、彼はそれを右手で遮りながら、空いた左手でハンカチを使って口元を拭う。


「どうやって計算したんだ?」


「へっ? あ、あの計算? ですか……それは、その、30日でセグナム銀貨3枚なら、10日でセグナム銀貨1枚お渡しすればいいんですよね? そうすると1日辺りがタークス大銅貨1枚、そ、そして、2日毎に更に1枚追加すればいいのだから、6日なら丁度9枚かなぁ……と、思いまして……わわわっ? そ、そのマテウス様、こ、困りますっ!」


 マテウスは何故だか無性に嬉しくなって、レスリーの頭を力強く撫で回してしまっていた。余りにも自然な感情だったので、自分でもなにをしたのかよく分かっていないくらいだった。ただ彼女のこの姿を誰かに……そう例えるならモニカ辺りに見せ付けてやりたくなったのだ。


 だが、レスリーからすれば、なんでそんな事になったのか理由ワケが分からず、戸惑ってマテウスの手に両手を重ねる事しか出来なかった。そうしてレスリーが手を重ねる事で、ようやくマテウスは自分のした事に気付いて、彼女の頭から手を退けて、咳払い1つおいてから仕切り直そうとする。


「ごほんっ……あぁー、すまん。少し取り乱した。正解だ、レスリー。良く出来たな」


「あ……はい、その……だ、大丈夫です。あ、お褒め頂き、そ、そのありがとう御座います……はい」


 そこで流れる、ひと時の沈黙。それはレスリーにとって、普段より少しだけ居心地がいいものだった。彼女にとって、なにかをして頭を撫でられるなどというのは、久しぶりの事だった。思い返すまでもなく生前の、同じベルモスク混じりであった母親に、そうしてもらったのが最後だ。


 何故なら、母親以降にレスリーの前に現れる人は全て、表情に出すか出さないかの差はあれど、彼女の事をうとましく思うような人達ばかりだったからだ。それは勿論、彼女の実家である、ドイル家の人間も含めての話である。


 当然の事だ。ドイル家の人間にとってレスリーは家族などではなく、主人による、ベルモスクの女に子を孕ませるという戯れ、その延長で産み落とされた玩具でしかないのだから。


 だが、目の前のマテウスの態度は、それとは異なるように思えた。レスリーが生涯で1番多く浴び続けたからこそ分かる、疎ましいという思いとは違う、別のなにかの感情をレスリーに寄せている。だからこそ得体が知れず、不気味で、怖かったのだが……


「因みにだが、君が高価だといったあの古着は、タークス大銅貨2枚半といったところだ。口先1つでどうとでもなる額という事だな。高価だなんて言葉は、物の価値を知ってからでも遅くはない。つまり、まぁ……気にするなという事だ。今、君が着ているその服も含めて、君が必要に応じて使ってくれるなら……それは等価だよ」


 この時になって初めて、もしかしてマテウスは自分を励ましてくれようとしているのではないだろうか? と、レスリーは思えるようになった。この買い物という時間も、自分に向けられた不器用が過ぎるこの言葉も、彼なりの励ましなのではないか? と。


 だが母親を亡くして以降、優しさに触れる機会がなかったが故に、好意に鈍くなってしまったレスリーにとって、マテウスに対する疑念はまだ晴れなかった。彼女はその思いを直接尋ねてみたいという気にはなったが、それを否定される事、その上でマテウスに不快な思いをさせる事……それらが怖くて、言い出せずに押し黙ってしまった。


「そろそろ行くか?」


「……あ、はいっ。わかりました」


 レスリーがなにも答えずにいるのを見ていたマテウスが、居心地悪そうに告げて立ち上がる。実際のところ、彼は励まそうとした訳ではない。自分の言葉に、彼女を励ませる程の力があると思っていない。ただ、レスリーが気に病む必要はないと、伝えるべき事実を伝えたまでだ。


 そして彼が少し居心地が悪かった理由は、言葉の選択を間違えてしまったかと危惧きぐしたからだったのだが、この危惧は杞憂きゆうであり、同時に的外れだった。


 そんな思いを抱いたまま先を行くマテウスの背中を見上げなら、レスリーはもう1度頭に残った温もりを確認するように、自らの手でその場所を触れて、いつも気難しい顔をしているマテウスが、彼女の前で初めて浮かべた、嬉しそうな笑顔を思い浮かべる。


 そうする事によって、彼女が感じていたマテウスに対する強い恐怖が、自身の中で、少しずつ揺らいで消えていくような気がした。

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