第11話

こんなはずじゃなかった。自分が非日常への引き金になるはずだったのに、姉に全部もっていかれた。主役はあたしのはずだったのに、とエゴをむき出しにするのは自分の心の中だけにして、階段を上がったパピ子は姉の部屋に乗り込む。

 部屋は長年引き籠っていただけあって、エントロピーが増大している。外の世界の人間を寄せ付けないような異世界を演出していると言ってもいいだろう、ゴミ袋と古い雑誌の配置が香ばしい。

「ああ、パピ子」

 居たんんだ、という呆気ない感じの反応だった。彼女はそんな散らかった部屋で、大きな鞄に荷物を詰め込んでいる。

「本当に出ていくの?」

「本気」

「あては?」

 心配をしていた。ずっと一緒に育ってきたのだ。子供の家出じゃないのはわかっている。

「ないけど金はあるし。漫喫泊まればいいでしょ」

「そんなの長く続けられないじゃん」

「先のことなんてどうにでもなるでしょ」

 鞄の口を閉めた祥子は立ち上がり、それを肩に掛ける。

「ほんとに行くの?」

「もちろん。どいて」

「もう」

 ついこの前までは家から全く外に出なかった人間だったというのに、今では進んで家を出て行くと言っている。「意味わかんない」

 そんな姉にそんな言葉しか出ないパピ子。

「ごめんね。また連絡するわ」

「いいよ、別に」

「素直じゃない」

「ほんとどうしてくれるのよ、全部後処理はあたしじゃない」

 損な役回りなのはこれが初めてじゃない。問題を起こすのは決まって姉の祥子だった。

「いつか穴埋めするわ」

 パピ子の横を通り過ぎて、階段を下りていく。階段を降り切り、廊下の先に消えていくと、程なくして玄関の扉が開かれて蝶番の力に任せて無造作に閉まる音が響いた。行ってしまった、とパピ子は思う。結局、どうにも出来なかった、と。

「ただいまー」

 それと入れ違いで、弟の洋太が帰ってくる。能天気な声だった。パピ子と違って玄関で家の異常事態に気付くような子供じゃない。それどころか小学五年生なのに未だおねしょをしているような奴なのだ。

 いつもなら母が、「おかえり」と言ってやるのだがその声がないので、パピ子が代わりに「おかえり」と二階から降りて言ってやる。

「さっき祥子ねーちゃんとすれ違ったよ」

 スニーカーを脱ぎながら洋太は言う。それが嬉しい誤算のように言う。

「そう」と、だけ反応して踵を返すパピ子。

「聞かないの?」

「別に」

 居間を覗くと、啜り泣いている静香とプライドの高い幸平の姿があった。彼らと何かを話す気にはならないので、パピ子は二階の自室に籠ることにする。きっと五分もすれば事態の異変に気付いた洋太が部屋にやって来て説明を求めるだろう。

 パピ子はエントロピーが極まった祥子の部屋とは、正反対の小奇麗な自分の部屋へ入り、扉を閉める。すぐに体をその扉に預けて彼女は低い天井を仰いだ。

 大学を辞めたことは結局、言えなかった。時期を逃してしまった。今更後にも引けないことはわかっている。いや、後には引けるが、それだと自分の存在がこの世にいないみたいで何だか癪に障る。

 預けていた体を今度はベッドに放り投げてやる。ふかふかという程ではないが、柔らかいベッド。枕元には、健太から貰ったクマのぬいぐるみがある。名前は、豆ちゃんという。どういう経緯でそれが豆ちゃんなのか今となってはどうでもいい。健太はもう過去の人である。別れた男のプレゼントであるぬいぐるみをいつまでも持っているのもおかしいだろう。愛苦しい表情の豆ちゃんには情も移っているが、それを手に持ち眺めながらも、いつか捨てようと考える。

「入っていい?」

 そんなことを思っていると、声がした。弟の洋太の声だった。

「いいよ」

 すると扉が開く。

「ねえ、あれどうしたの?」

「あたしも詳しく知ってるわけじゃないけど」

 豆ちゃんを枕元に戻して、パピ子は上体を起こす。「なんかお姉ちゃんとお父さんが喧嘩して家を出ていくことになった、って感じ」

「どうして?」

「さあ」

 はぐらかす。小学五年生なのでそういうビデオを知らないはずはない。いやきっと隠れて見ているはずなのはパピ子にもわかっている。だが面と向かって言う話でもない。

「そんな」

「けどすぐ帰って来るわよ」

 洋太に言った言葉だが、実際のところ自分に向けてでもある。

「そうだよね」

 彼が今回の騒動をどう認識しているかは知らない。いつもの通りのテンプレートに沿ったやり取りではかなったことに気付いていないなら、盲目的にパピ子の言葉を信じてもおかしくないだろう。だがいつもと違うことを知っているパピ子は、一抹の不安を覚えても不思議ではない。

 それから洋太は「じゃ」と立ち去ろうとする。

「ちょっと待って」

 そんな洋太のことをパピ子は止めていた。どうしてかと言えば、大学を辞めたことを伝えてしまおうか、という気分になったのだ。きっとこの状態で打ち明けることが出来るのは、弟の洋太だけだろう。「ちょっと待って」どうしてか二度、言葉を繰り返していた。

「なに?」と、洋太。

「いや何でもない」

「祥子姉ちゃんのこと?」

「いやちょっと、別に。いいから。もう行って」

「おかしい」

「いいから行けって」

「はーい」

 そうして部屋の扉が閉まる。

 結局、パピ子は洋太に自分の突拍子もない行動を伝えることが出来なかった。

「あー! もう!」

 枕元にある熊のぬいぐるみの豆ちゃんを強く抱きしめる。タイミングの悪い自分を嘆くしかなかった。「あー!」

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