第10話

 家に帰ると、様子がおかしい事が玄関先でわかった。扉を開き、中に入ると、どうもいつもの様子でない。夕方の手前である。水曜日なので母はパートに出ているはずだった。姉もAVメーカーにアルバイトに行っているはずである。そして父も仕事で学校へ行っているはずだった。だがどうだろう。玄関にはその外に出ているはずの三人の靴があるのである。

 そして誰かが居るならリビングから流れてきていたっておかしくないワイドショウの音が一切聞こえてこない。

 もう二十一年もこの家でパピ子は過ごして来ている。こういう時が一体どういう場面なのかはおおよそ見当がついていた。姉がきっと父と母に怒られているのだ、とパピ子は思う。理由はきっと彼女の仕事についてだろう。どういう経緯で発覚したのかはわからないが、この重苦しい雰囲気の理由はそれ以外に考えれれない。

 パピ子は、大声でも小声でもなく、ただいまなんてことは一つも言わない。とても静かにミュールを脱いで、家に上がった。

 もちろん彼女は姉の祥子に加勢してやるつもりである。だが良い言い訳が浮かんでこない。祥子を助けてやるような良い一撃必殺の言葉が出てこないのである。廊下を歩き様子を窺いながら居間に向かい、結局出たとこ勝負で対決していくしかないな、と覚悟を決める。

 自分が大学を辞めたことは、もし本当に祥子が父と母に詰問されているようなら黙っておくのが賢明だろう。火に油を注ぐような結果になるのは目に見えている。

「パピ子か」

 父の声がした。

 居間に入ると、テーブルを挟んで向かい合っている三人がいた。弟の洋太は学校らしい。彼はまだ小学五年生だ。そんな子供の前でAVメーカーがどうのこうのという話はしたくない。

「うん。ただいま」

 幸平の声の調子で、彼が怒っていることはわかった。そしてその固い表情を見てもその印象は変わらなかった。

 幸平と静香は並んで座り、その反対側に裁判に掛けられてしまった祥子がいる。祥子の表情もまた幸平と同じで強張った表情をしている。元々、引き篭もりをしていたほどの頑固な性格である。幸平に何かを言われて、折れるような人間じゃないのをパピ子はわかっている。

「お前知ってたのか?」と、幸平が尋ねる。

「なにを?」と、彼女。

「祥子のアルバイト先だよ」

「知ってたよ」

 加勢するという合図だった。パピ子は両親の横を通り過ぎて、祥子の隣に腰を下ろす。祥子は別にそういう事を望んでいた訳じゃないだろう。だがパピ子がこの家で二十一年暮らして来たということは、祥子もまた彼女とそれだけの月日を過ごしたという訳だった。望んでいなくても、自分の妹が手助けをすることは予期していただろう。

「知ってて黙ってたのか?」

「うん。心配すると思ったし」

「ったく――。お前らは」

 幸平はため息を吐く。

 パピ子は、そんな彼の隣に座る母、静香に視線を送った。物分りは良いが、AVとは無縁そうな女性である。フェミニストやウーマンリブ運動とは無縁とも思える今時珍しい耐え忍ぶ女だった。良家の出身でも何でもないが、どこか品が良く、悪く言えば間が抜けている印象もある、そんな人だった。姉妹は容姿で言うなら例外なく、そんな母に似ていて、父、幸平にはちっとも似ていない。

 つまり、居間には顔が似ている女性が三人いることになる。

 視線を送られた静香は、目で頷く。

「まあお父さん」

 呆れている幸平を静香がそう言って宥める。パピ子が入ってきたことをきっかけに話を一旦終わらせてしまおう、という魂胆だった。このまま幸平の怒りのボルテージを下げていき、具体的な解決など一切せずに問題を棚上げしてしまう。せっかく引き篭もりを止めて社会に出始めたのだ。内容はどうであれ法に触れているわけでもない。静香としては、多少驚いたものの、出来ることならこのまま続けて、次に真面な会社に移れば良いという風に割り切ったに違いない。卒倒してなかったのは、パピ子にとって意外だが、悪い結果ではなかった。

 ここで洋太が帰ってくれば最高なのだが、物事はそう上手く進まない。父は長女の不祥事に対応するため、勤務を切り上げてまで帰ってきているのだ。

「祥子。今すぐここで辞めるか、家を出ていくか決めろ」

「え、お父さん。祥子だってやっと外に出てくれたじゃない」

「良いんだよ。お前は黙ってろ」

 静香へのきつい言い方はいつもの事だった。

「そんな言い方ないじゃん」

 祥子が母を庇う。黙っていれば良いのに、とパピ子は彼女を見るがもう遅い。彼女が帰ってきてトーンダウンしていたと思われる空気が一転、緊張を高めていく。

「良いのよ、祥子。あたしがいけないの」

 静香は殊勝だ。一家の長である幸平の言葉をいつでも飲み込む。今時珍しいし、それは同じ人間なのに偉そうな父、幸平もだった。

「お母さん、どうしてそんなに弱気なのよ! 言い返せばいいじゃない」

 引き篭もっているときから祥子はいつも好戦的だった。そもそもそういう性格である。

「ちょっとお姉ちゃん。落ち着いて」と、パピ子。

「あんたは黙っててよ」

「何よ、それ黙っててって」

「お前ら静かにしろ!」と、幸平の声。

「何よ! 偉そうに!」

「それが父に向かっての態度か! 文句あるなら家出て自分一人でやってみろ!!」

 いつもならここで静まる。パピ子はそう思う。家族喧嘩は今までだって何度もあった。その度にこうしてどうにでも出来ないことを父に言われて、被告人は黙り込み、臨界点から急速に氷点へ向かって雰囲気が降下していく。

 今回もそんないつもの流れの一つのはずだった。そして実際そういう予定調和の実現のために、それぞれのテンションが下がり、場が静まり返っていくのがわかる。

「じゃ出ていくわよ」

「はあ?」

 パピ子はそんな事を言い始める祥子を見る。祥子は立ち上がり、「だったら出ていきます」ともう一回言うと、居間を出て行き二階の自室に向かって階段を上がっていく。

「ちょっと」と、彼女を止めようとしてももう遅い。

 いつもと違った展開に戸惑うのはそんなパピ子だけでなかった。母、静香は不安そうに瞳を右往左往させて、父、幸平は自分で出ていけと行ってしまった手前、無言で表情を崩さない。プライドの高い男だ。さっきのなしで、なんて言いながら自分から謝ったりはしないだろう。それにそんな男の娘である祥子もまたプライドが高い。自分から言ったことを、さっきのなしで、と謝る女じゃなかった。

「お父さんも何か言ってよ」

「知るか。好きにすればいいんだ」

 漬物石のような幸平にパピ子が何を言っても遅かった。静香に期待はできないので、今度は彼女が立ち上がり、自室に向かった姉を追って二階に上がる。

 一階の居間には、結局、会話を失った夫妻が残ることになった。

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