第9話

 まだ半月分残っている定期は無駄だったな、など考えながらパピ子は電車に揺られる。

東横線である。乗り換えのためにこれから渋谷に向かっている。そこから彼女は半蔵門線、都営新宿線と乗り継ぐ。大学を辞めたということは、それらの電車に乗る機会もなくなるに違いない。

 今日までずっと見ていた風景を見る。パピ子は席に座っていない。座れもしたが、扉の脇に立って外の風景を眺めていたかった。自己憐憫の浅い泉に浸りたいのだ。

 毎週水曜日、二限目の授業に間に合うように電車に乗ると、同じように毎回いる女性を思い出した。一度だって会話はした事はない。パピ子が降りる駅の先に彼女の目的地があるため、その人がどこに向かっているのかも終ぞわからなかった。年齢は少し上くらいだろう。水商売っぽい厚めの化粧で、席に座っているときも、座ることが叶わずに今パピ子のいるような位置に突っ立ているときもずっと自分の爪を見ている女性だった。

 なんとなくパピ子は毎回いるその女性が、自分とは縁遠い世界にいる人のように思えてならなかった。だから良く覚えていて、こうして感傷に浸る場面で思い出しもするのだろう。

 その女性が、自分の春、もしくは自分の春の予感、を売って生活しているのは見た目から想像がつく。一方、彼女自身は単なる大学生。毎週同じ電車に乗り込んでいるのに、こんなにも遠い二人だったのだ。

 だがそんな女性に、大学を辞めてしまったパピ子は一歩近づいてしまったような気がするのだ。電車の空いている席を見ると、まるでそこに以前の単なる大学生の自分がいるような気がして、そしてその空想上の自分が、大学を辞めて非日常だと思っていた世界に踏み出している自分を、何だかとても遠くに住んでいる人だな、と観察するように眺めている。

 もちろん全ては、突拍子もない行動を取ってもう戻れない日常への想いを馳せるパピ子のナルシズムな一面が作り出した幻想である。

 車内に彼女以外にも人がいるというのに、何もないように認識をして、差し込む柔らかい陽の光と、強めの冷房から出る風に任せて、妄想を走らせる。これから家に帰って、夕食時、家族が団欒しているときに、自分の今日の決断を発表するつもりだった。

 きっと父も母も、姉も弟も度胆を抜かれるだろう。父、幸平は怒り、母の静香はやっぱり卒倒するかもしれない。姉はたぶんそんな自分を尊重してくれるだろう、とパピ子は踏んでいた。弟の洋太(ようた)は事の重大さに気づきつつも、何かを言ったりはして来ない。

 パピ子はそうやって電車に揺られながら、何度も何度も家族にそのことを打ち明ける瞬間のことをシミュレーションする。

 そのうち彼女は目的の渋谷につき、ホームに出る。大学の構内から外に出た時と同じだった。鍋を開いたときのような、湯気が顔に纏わりつくような、強い湿気と高い気温に彼女は夏という季節を恨む。

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