第2章

第8話

こんな事をして親不孝にならないだろうか、と思った。もう大学の事務局を後にしてしまっている。つまりパピ子は出してしまったのだ、退学届を。辞めてしまったのだ、大学を。

 健太と別れてから二日後の午後だった。翌日、退学届の用紙を貰い、一晩かけてそれを書き、ゆっくりと起きてからそれをつい先ほど事務局に提出してきたのだった。隣に建てられた新校舎とは違い、狭い廊下の旧校舎。無機質で実用的な味気ない建物の中をパピ子は一人歩いている。夏休みなので人の姿は少なく、廊下の端から端まで見渡しても、そこに他の人間の影はない。ただ強く強く差し込む日差しがあるだけで、窓ガラスを通じて突き刺さるそれは、そんな罪の意識に囚われた彼女を掴んで逃がさない。事務局のある三階の高さまで伸びている緑の茂った木々の枝々が、時折、太陽と窓ガラスの間に入り、廊下に涼しげな影を作るが、それだってあまり効果があるとは言えない。考え事をしながら進めば、木々の影に入ったことなど気付かないことのほうがずっと多いし、そもそも構内ないには冷房がかかっている。窓ガラスに面した廊下を歩いていたら日差しの強さは気になるが、暑さを伴わないそれは、静かな夏の構内では少し不気味な幽霊のような存在だった。

 パピ子は後悔はないと思って出したが、いざそれが受理されると、後悔しかなかった。ずっと親不孝にならないか、などと考えながら構内を歩いているが、もう歴とした親不孝者なのもわかっている。

 これからこのまま廊下を歩き、玄関に向かうだろう。そして外に出ると、相変わらずの暑さに嫌気が差しながら、今度は門を潜る。そうしたらもう二度とこの学校には来ないのだ。

 なんだかそう思うととてつもない馬鹿なことをしている気分になった。しかももう後には引けない。

 いや走って事務局に駆け込めばまだ間に合うだろう。だがそれをする勇気もないほど、パピ子はこの決断を下すために気力を使い果たしており、臆病になってしまっていた。

 ああ、やってしまった。けど、看護師になるためだし。だから大丈夫かな?

 そう思いながら、彼女は大学の門を出ていくのだ。

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