第7話

祥子が残していった汚れた食器までパピ子は洗うことになる。それについて何か言ってやろうとも思わない。そういう姉とこれまでずっと過ごしてきたのだから、ただ呆れてやれやれという感じで、彼女の分まで洗うだけだった。そんな小さなことでいちいち怒っていてはパピ子の身が持たないのだ。

 蛇口から水を垂れ流し、泡立てたスポンジを皿に立てる。白い泡が彼女の利き腕の右手を包む。母の静香が見たら、洗剤の使い過ぎ、というのだろう。だがそれくらいの泡に包まれるのが彼女は好きだった。保険のCMが背後のテレビから聞こえた。

 彼女はそれをBGMに手を動かし、汚れた食器を洗う。一人になると、どうしても考えてしまうことが二つあった。一つは健太のこと、そしてもう一つは自分の将来、つまりこれから始まる就職活動のことだった。

 健太については、別れたことが尾を引いている。言っても六年付き合ってきたのである。二日前は別れるなんてちっとも考えていなかったのに、今はもう彼は自分のものではない。そんな現実感のない突拍子もなくどうしようもない現実が、何だかこれまで信じてきた彼女の人生観から遠く離れすぎていて戸惑っているのだ。生活は日々の積み重ねで、明日というものは、昨日ないしそれまで過ごしてきた月日の結果であり、どうしようなく予想できないことは起きたりなんてしない、そういう前提が崩れてしまった。

 そうやって長期的な積み重ねるという行為が否定されてしまうと、人間どうしても刹那の快楽に目を向けてしまう。他人に恩を売り、いつ返って来るかもわからないそれを保険に、毎日正しく歩むよりも、一秒一瞬を自分本位に生きるほうが楽しいのではないか、そう考えてしまう。

 去年に起こった大地震のときも、テレビでその映像を見ていて同じようなことを考えていた。それまで毎日真面目に生きてきた人が、理由なく突然、生死の篩いにかけられてしまう。その局面ではそれまでの日々の行いなど意味がなく、結局そのとき正しい行動を取れた人たちが生き残った。

 あの三月も確か、同じような気持ちになった。

 そして彼女は、同じように自分の生き方について疑問を抱いた。去年の地震の際、抱いたその疑問の蕾は、今思うと恋人の逮捕でまた戸惑うパピ子の伏線だったのかもしれない。

 蛇口からは生温かい水が垂れ続ける。その水が、汚れと混じった白い泡をシンクの排水口へ流していく。

 彼女は、明日にでも大学を辞めてしまおうか、と考える。綺麗になった食器を拭き、水分を落としてから並べていく。陶器が重なると乾いた音が鳴った。

 これが考えている二つ目のことだった。これもまた突拍子もないことだろう。だがここ一年以上、ずっと心の隅で悩んでいたことでもあった。

 パピ子には今の学部では実現出来ない夢があったのだ。つまり、経済学部の彼女は、本当は看護師になりたいのだ。

 だから、どうせ長期的な視野で生きても意味がないのなら、今すぐにでも全てを投げ出して自分の為に向かって刹那的に生きていくのも悪くないのか、と思うのだ。

 ましては夢の実現のためである。大学を辞めてしまう、そういう選択肢が益々現実味を帯びてきてしまうのだ。

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