第6話

 家に戻ると、姉がいた。五つ年上の二十六歳で、名前は祥子(しょうこ)と言った。大学へ入学したが、結局ほとんど授業に出席せず引き籠りの道を歩んだ姉だった。

「仕事は?」

「休み」

 そんな祥子もついに重い腰を上げて、先月からアルバイトを始めていた。キッチンで二人は交差する。食事を終えてシンクに食器を持っていく祥子と、冷蔵庫を開けて冷たい麦茶を取り出すパピ子。

「あんたは?」

「休み」

 パピ子も月曜日は授業を入れていないので休日だった。毎週三連休が欲しいな、と思って意図的に作った休みだった。随分呑気な感じに見えるが、この生活を実現するために一年と二年のときは、呆れるほど単位を取った。決して楽をして胡坐をかいたまま得たものではない。

 パピ子は古い旧式の冷蔵庫を閉める。

「炒飯あったでしょ? 食べていいって」

 二人の母、静香からの伝言なのだろう。椅子に足を乗せて、親指の爪を弄りながら祥子は言った。

「わかった」

 お腹が空いていたはずなのだが、家に帰ってくると食事よりもまずゆっくり落ち着きたくなった。麦茶をグラスに注いで、彼女はそれを喉に一口、二口と落としていく。地獄のような暑さで失われた身体の潤いが甦ってくるようだった。

「彼氏とはどうなの?」

 とてもタイムリーな話題を祥子が振ってくる。居間にあるテレビはつけたままだが、彼女は親指の爪ばかりを見ていて、それをちっとも気にしてはいない。

「別に」

 逮捕されたから別れてきたなんてこと言えない。

「そう。良いわね。美人は」

 よく姉の祥子はパピ子に美人と言う。からかい半分、嫉妬半分だった。だが言う彼女も不細工ではなく、むしろその逆だった。まだ祥子が引き籠る前の彼女が高校一年生の頃などは、美人姉妹と近所では評判だった。

「嫌な感じ」

 一杯目の麦茶を飲み干すと、パピ子は二杯目を注ぐ。とくとくと音を立ててグラスを満たしていく麦茶。「やめてよ、そういうの」

「いいじゃない。事実なんだから」

「仕事はどうなの?」

 やり返してやろう、そんな気持ちでパピ子は祥子に尋ねる。

「別に」

「同じようなもんじゃん」

 特に二人は仲が悪いわけじゃない。棘の会話をしてもそれは本気ではない。猫が甘噛みをし合うようなものなのだ。

 キッチンから通じている居間のテレビでは、小堺一機が洋服を着たグラビアアイドルを相手にお喋りをしていた。

 室内には冷房を入れてあるので窓は閉まっており、外界の音はほとんど聞こえない。

「炒飯食べなよ」

「食べますよ」

 パピ子は再び冷蔵庫に近づいて、扉を開く。ラップのついたそれを手に取り、レンジに入れると、振り返り再び祥子を見る。

 どうして彼女が引き籠っていたのか話し合ったことはないので知らないし、どうしてまた外に出てくる気になったのかもわからない。それでもこうしてまた元気に活動している姿を見るのは嬉しかった。

「仕事、いつ言うの?」

 家にはパピ子と祥子しかいないのは、玄関の靴の状況でわかっていた。だからこの話題が出来る恰好のチャンスだった。

「そのうち」

「ずっと秘密にしてるつもりでしょ?」

「それも良いかなって思ってる」

 祥子は両親へテレビ制作会社でアルバイトをしている、と伝えていたが、実際のところ彼女はAVメーカーで働いていた。これを公立高校の教師の父、幸平(こうへい)が知ったらきっと激怒するだろうし、AVになんてちっとも免疫のなさそうな母、静香が知ったら卒倒するだろう。

「いつかバレるんじゃない? それなら先に言ったほうが良いと思うけど」

「馬鹿ね。バレッこないわよ」

「そうかな」

「そうよ、そう」

 そうやって話しているうちにレンジが炒飯が温まったことを知らせる。

「いつまで続ける気なの?」

「とりあえず年内は。お金も欲しいし」

「ふーん」

 ラップを取り、それをゴミ箱へまとめて捨てる。スプーンを用意して温まった炒飯をテーブルに移すと、パピ子は祥子の前に座る。丁度、テレビへ向かっている祥子の視線を遮る形になった。だがもちろん祥子はテレビを熱心に見ているわけでもなかったのでそれについては何も言わない。

「軽蔑してるんでしょ? あたしのこと」

「してないよ」

「あらそ、それで。あんたはどうなってるのよ」

「なにが?」

「就活」

「まだこれから。十月から」

「もう八月よ」

「十月じゃないじゃん、八月って」

「セミナーとかあるでしょ、八月でも」

「詳しいんだ」

「良いじゃない、別に」

 そこまで話すと、元引き籠りの姉、祥子は部屋へと戻っていった。キッチンに一人になったパピ子は、小堺一機の軽快なトークを見ながら炒飯を食べる。炒飯は母の作るいつもの味だった。特においしいとも不味いとも感じない。

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