第5話

 警察署の外に出ると、夏の暑さが彼女を襲う。数秒も外の湿った蒸し暑い空気に晒されれば、特別汗っかきという訳でもない彼女のでもじわりと滲み出てくるものがあった。

 丁度、昼時である。家に帰ってこのまま食事をするのも良いが、別れ話をしたばかりで何だか心が落ち着かないので、どこかに入るのも悪くないか、と思う。

 ただ一人で入るとなるとどこも気が引ける。ここは彼女の地元で、都と県の境目にある下町だった。三つの大きな川と、無駄に広い公園、お洒落なカフェなんてものよりも、牛丼屋やハンバーガーショップが猛威を奮う生まれ育った町。どこかでかつての同級生に一人で牛丼を食べているところなんて見られたら恥ずかしい。

 警察署の入り口を出て階段を下りる。国道沿いなので、車が駆け抜けていく音がひっきりなしに聞こえた。月曜の昼間だが往来は多い。

 それから彼女はもはや伝統のような狭い歩道を歩きながら、思考を巡らしてどこか良い場所なんてないものかと考える。ただこれまで二十一年もここで暮らしてきたのである。思い浮かばないということは、そんな素敵な場所はない、ということだった。誰かを誘っても良いかもしれないが、健太が捕まり、別れたということを友人に打ち明けられるほど心の整理はついていない。涙こそ流しはしなかったが、感傷に浸っていないわけじゃない。その証拠に彼女は自然と自分の足元を見てしまう。不細工な指の爪と、先月買ったばかりのミュールだ。きっと来年はもう履いていないだろうそれを見ながら、彼女は六年という歳月がさっきのきっと五分にも満たない会話で終わったんだな、ということを喪失感と共に実感していくのだ。

「はーい。みんな止まってー」

 女性の声がした。視線を上げると、少し先の横断歩道で止まっている園児の行列があった。声の主は女性教諭のものだった。これからただ無駄に広い公園にでも行くのだろう。

 信号が青になり、園児たちが横断歩道を渡ってくる。狭い歩道だった。パピ子は排気ガスで汚れたガードレールに尻をつけるようにして小さな園児たちが通るための道を作ってやる。

「どうもすいません」

 引率の教諭が笑顔を見せる。歳は自分よりも少し上くらいだろうか、とパピ子は思う。実際それは当たっていた。彼女とはたった二つしか違わない。

 それから園児たちは何事もないように消えていく。残されたパピ子が再び横断歩道に視線を戻すと、信号は再び赤に変わっていた。

 なんだかツイていないような気分になる。悪いことしてそういう結果になったわけじゃないのだが、チャンスを逃してしまったような感じ。

 益々、何だか家に帰りたくなるなるが、もうその件については答えが出てしまっている。次の信号が青になるのを待ってから、パピ子はまた歩き出す。

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